『メキシコ万歳』のロケに来たエイゼンシュテイン(エルマ・バック)がメキシコ中部の美しいコロニアル・スタイルの都市グアナフアトで過ごした1931年の死者の日直前の10日間を扱ったもの。
オープニングのエイゼンシュテインの旅のシークエンスはモノクロ映像で、時々スクリーンを3分割してエイゼンシュテイン自身の映像を挿入し、グリーナウェイのフッテージをエイゼンシュテインらしく見せる。映画人エイゼンシュテインがメキシコで如何に映画を撮ったか、というストーリーだろうと期待させる。
……が、映画撮影の場面は一切なく、むしろ違う主題を扱ったものであることは、クレジットが終わって一行がグアナフアトに到着し、歓待を受けるシークエンスから明らかだ。性的に奥手なエイゼンシュテインがガイド役の現地の青年パロミーノ(ルイス・アルベルティ)に導かれてホモセクシュアルに開眼していくという話だ。
性描写の過剰(一般映画としては、ホモセクシュアルを扱った映画としては)がグリーナウェイらしい。レストランからくすねてきたオイルをパロミーノがエイゼンシュテインの背中から尻にかけてのラインに垂らし、同じをオイルを使って自らのペニスをしごき、徐々に勃起させながら口説いていく場面は、このまま挿入の絵も見せるのではないかと期待(?)させる。さすがにポルノグラフィではないのでそんな映像はないのだが、そんなわけで、ハードコアではないかとの疑いすら抱く(実際はどうなのかは知らない)。このさじ加減が実にグリーナウェイらしい(とぼくは思う)。ヴィスコンティもアルモドーバルも撮り得なかった愛だ。
映画祭限定なのか、今回はモザイクやぼかしなし。下手にぼかされると、確かに、困るといった類の作品だ。
ちなみに、アップトン・シンクレアの妻やその弟など、出資者との確執(というか、出資者の無理解)から『メキシコ万歳』は完成を見なかったのだが、そうした事情が描かれ、彼が実際に残したフッテージが数多く挿入され、実際に残された彼自身の写真なども想起され、セリフ内でもエイゼンシュテインの業績についての言及がなされるなど、エイゼンシュテインとメキシコの関係をめぐる事実の外枠は踏まえられ、表現されている。ガイドとの関係などが事実に基づくものなのかどうかは、ぼくは知らない。フィクションだろうとは思うのだが、そんなことは、この際、どうでもいいのだろう。何より、グアナフアトが美しい。フエンテス『良心』の舞台。ぼくも好きな都市だ。