ロー・テーブルとソファの組み合わせで読書も進む。なんちゃって。
エドウィージ・ダンティカ『海の光のクレア』佐川愛子訳(作品社、2015)
ダンティカ最高の作品との評判もある。2部8章からなる長編だけれども、それぞれの章は独自のタイトルがついているし、章ごとに違う人物に焦点を当てており、連作短編としても読める。実際、第1章「海の光のクレア」はダンティカ自身が編集した短編アンソロジーに掲載されたのが初出らしい。それぞれの章にいくつかの謎を残すやりかたも、それらに短編との印象を与える。そうして積み重なった謎が、他の章で解き明かされる、とまではいかずとも、解答へのヒントがほのめかされ、回収されるところは、単なる短編集ではなく連作短編と呼びたくなるゆえんだ。
生まれた時に母をなくし、母の代わりにやってきた亡霊ルヴナンなどと呼ばれてもいる少女クレアが、7歳の誕生日に、織物屋の女主人ガエルに養女に出されることになったものの、その日、父と新しい養母の前から姿を消してしまうというエピソードが外枠。織物屋の主ガエルには、クレアより3歳年上のローズという娘がいたが、彼女はクレアが4歳の時に車にはねられ死んだ。そしてまたローズの父親、つまりガエルの夫ローレンは、ローズが生まれた日に勤務先のラジオ局で何者かに射殺された。ローレンを射殺した主犯として警察に捕まったバーナードは、釈放後、やはり何者かに殺された……という具合にエピソードが連なり、ヴィル・ローズという人口一万一千人ばかりのハイチの小さな町の人々の、クレアの失踪した日とその10年前のローズ出産の日(ローレン射殺の日)を巡る人生が描かれる。
最終章では再びクレアに焦点が戻り、彼女の失踪の経緯が描かれるわけだが、そこにいたって、クレアの7歳の誕生日の出来事が、目の前の海と背後の山の対比に回収されるのはみごとだ。漁師たちを呑み込む海の物語、セイレーン(ラシレーン)の歌と山に逃げた逃亡奴隷たち、マルーンの物語へのクレアの自己投影として位置づけられるのだ。
そうした位置づけが開示された後になされるクレアの心情の叙述、257-258ページの叙述はすばらしく美しい。ここで引用はしないけれども。
一方でその美しいページの直前に、こうした段落があることも見逃せない。
父が好んで言うには、イニティル山は二、三年後には役立たず(イニティル)ではなくなっているだろう。それは、この小山を焼き払って平らにすれば、巨大な御殿を建てられると大金持ちが気づいたからだ、というのだった。あそこはじきに、モン・パレ、つまり御殿山と呼ばれねばならなくなるだろ、と。(256ページ。( )内は原文のルビ)
開発の波は迫っている。クレアの頭にこびりついているセイレーンの歌は、他の子供たちは歌いたがらない。逃亡奴隷の話を学校で読み聞かせしていたラジオ・パーソナリティのルイーズは辞めさせられた。ゾンビの話もごくたまにしか出てこない。クレアがルヴナンだという信じ込みは、父親によって常に否定されている。クレアはつまり、現代にわずかに残存する伝統・伝承のハイチでもある。このバランスが絶妙だ。
個人的な好みとしては、クレール、ローラン、ベルナール……などフランス語風の呼び名にしてほしかったな、という気がする。英語で書かれ、まず英語話者たちによって読まれた作品であることを慮って人物名の表記はこうなったのだろうということはわかるのだが……