パトリック・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』関口涼子、パトリック・オノレ訳(河出書房新社、2015)
カーニヴァルの夜にソリボ・マニフィークと呼ばれる語り部(後に明らかになった本名はプロスペール・バジョール)が死ぬ。殺人事件と見た警察はその場に居合わせた者たちに事情聴取をするが、証人=容疑者たちは、ソリボが「言葉に喉を搔き裂かれて」死んだのだと言う。そんなことを信じるわけにはいかない警察は、毒殺による殺人だろうと推理し、15人ばかりの証人に訊問を続ける。
推理や犯人探しが主眼ではなく(犯人は言葉なのだから)、証人たちが浮き彫りにするソリボの人となりというか、語りの様態、存在が中心をなす。そしてまたフランス語・クレオール語入り混じり(であるはず)の丁々発止のやりとりも魅力。
証人のなかにパトリック・シャモワゾーという作家(「わたし」)が混じっている。彼(「わたし」)はソリボの語りを書き留めたいと思い、ソリボに取材していたのだ。いきおい、小説の「終わりつつある口承文学と生まれつつある記述文学との出会い」(オビのミラン・クンデラの言葉)という主題が浮かびあがることになる。「物語が無くなり、クレオール語が衰退し、わたしたちの言葉は、教員たちもが聞き取ることの出来なかった敏捷さを失い、そしてソリボは、最初は打ち勝てると思っていたその宿命に絡め取られていくのに自ら立ち会っていた」(208ページ)というわけだ。
しかし、作家(「わたし」)自身は、こうした口承文学の死に立ち会ったという自己認識を拒否し、自らを「言葉を書き留める者」と呼ぶ。両者は「全く違うもの」だと。「言葉を書き留める者は口承文学の死を拒否し、口に出された言葉を集め、伝えるのです」(155ページ)と。
作品末尾には「ソリボの口上」が添えられている。
さて、ソリボはクレオール語で話していたはずだ。登場人物もクレオール語で話したり、クレオール語混じりのフランス語で話していたはずだ。このテクストは二重の翻訳を経て読まれているはずだ。口語部分は、これが二重の翻訳であることを自覚した、リズミカルで奇妙な日本語になっていて、そうした形式上の面白さもこの小説の魅力だ。
たとえば、「今ごろオーケー烏骨鶏、滑稽こっことご一緒に山の上ではないかいな」(219)なんて、原文はどんなだろう?
「ならば訊いたら、とととん、と? それは風景のソリボ、そこには底なし盆地のソリボ、見捨てられたるもののソリボ、虎も兎も粗筋もない道行きのソリボ、砂糖も塩も底をつきたるトータル、グローバル、病院行ったるホスピタル、遺伝関係たる、樽づめたる、自治体たる、ジャッカル、がたがたしたる文法たるローカルの立てたる殻のスキャンダルを起こすでない、とととん? それはフォンダマンタル〔根本たる〕・ソリボなのだ、あたしの名前を呼んどくれ!」
「フォンダマンタル・ソリボ!」(222ページ)
なんて、わくわくする語りの現場は、原語でどう記されてるいるのか?
日本語への翻訳もまた、マニフィーク(素晴らしい)なのだ。