イスラム国がジャーナリストの後藤健二を殺したらしいというニュースが流れ、暗澹たる気持の日曜朝。ツイッター上では通常の番組を中断してそのニュースを延々と流し続けるTV局に対する非難がトレンド入りするほど書かれていて、ますますうんざりする。明かな代償行為だ。そんなものにつき合わない方がいいのだろう。
あるとき、ある病気で感じた死を恐怖する気持がまたその存在を主張しようとしている。この件について語ることも語らないことも、ぼく自身の体調には悪影響を及ぼしそうだ。ブログやツイッターなどで書くことは差し控えよう。
ノートだ。
既に何度も書いているとおり、基本的にはモレスキンのノートを使っているのだが、時々、違うのにしてみる。写真左はモレスキンではあるものの、赤いやつ。これの後にクレールフォンテーヌのものを、現在、使ってみている。そろそろ次のやつを、というので、今回、はじめて買ってみたのがロイヒトトゥルムLeuchtturm。
こんな比較ではわかりにくいかもしれないけれども、幅はモレスキンより少し広い。ページ番号が振ってあり、目次を作るためのページもある。紙質も少し異なる。
日記も、読書ノートも映画ノートも執筆のためのノートも、たいていは1冊にまとめて使っている。特別に1冊用意するような仕事もあるにはあるが、それは1冊の本になるような大きなものの場合。短い原稿などのためには、ここに雑多に書き連ねることにしている。左端の赤いノートを引っ張り出したのは、ある思いつきをここに書いていたからだ。書き留めた内容は、記憶の中の印象と少し違っていたが。
日記形式の小説の翻訳もしている。日記を読み返し、日記を記すことの意義(目的)を綴った箇所などを訳していたので、次のノートのことに思い至った次第だ。翻訳も追い立てられているが、こうしてまだ使い終えていないうちから次のノートの候補のことを考え、これにしよう、と選定していると、早く今のこのノートを使い終えねば、という気になってくる。自らを追い立てているようなものだ。ぼくのような性格の人間にはそれも悪くない。