MONKEY Vol. 5の「村上春樹私的講演録」連載第5回は「小説家になった頃」。
学生結婚だったこと。バーをやっていたこと。神宮球場で小説を書こうと思いついたこと。最初の章を英語でかいたこと、など、……こうして列挙すれば、ファンには既にお馴染みの事実ばかりだ。ある程度以上のファンなら、何かに書かれているのを読んだか、せめて二次的にでも聞いた話だと思う。
が、そうした(とりわけ二次的になら)生半な事実認識とは、異なって響くのだ、本人が今回書いていることは。さすがに作家の手によって語り直されると、それらの事実がまったく違う意味を帯びるものとして立ちあらわれてくる。
たとえば、『風の歌を聴け』の最初の章を英語で書いたという話。これはあまりにも有名な話で、あちらこちらで再生産されている。が、今回書いている経緯はそのままには繰り返されていないように思う。今回、どう書いているかというと、まず最初は日本語で書き(タイトルは別だった、と言っている。このときのタイトルは「ハッピーバースデー・アンド・ホワイトクリスマス」のはず)、できが今ひとつなのでオリヴェッティのタイプライターを引っ張り出してきて英語で書いてみた。そこで獲得した「リズム」(と本人は書いているけれども、これはあきらかに文体のことだ)でもって日本語を書き直した。そうしてできたのがあの小説だということ。最初から英語で書いたのではない。日本語があり、英語が来て、最初の日本語に上書きされたテクストが出来上がった。
神宮球場での思いつきについて、こちらははるかに運命論的な色合いが出ている。見に行ったゲームは1978年の開幕戦で、1回の裏、外木場から1番ヒルトンがレフトに二塁打を放った瞬間で、「空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受けとめられたような気分でした」と説明する何者かが、つまり、「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」との思いだった。村上はこれエピファニー(epiphany)と呼び、「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」と非宗教的な説明をしているが、エピファニーとは神明(神命)の顕現だ。悟りだ。啓示だ。ちなみに、この年のヤクルトは万年Bクラスを脱し、優勝したのだということまでもがつけ足されると、はるかに啓示の観は強くなる。
さらにこうして書いた小説で、彼は作家デビューを果たすのだが、その後日譚、というか、『群像』の新人賞受賞の話も興味深い。最終選考に残っていることを編集者から知らされた日の朝、彼は妻とふたりで散歩に出て、傷ついた鳩(伝書鳩。ちなみに当時彼が住んでいたのは鳩森神社のそば)を拾い上げる。名札があったので交番にそれを届けに行った。
そのあいだ傷ついた鳩は、僕の手の中で温かく、小さく震えていました。よく晴れた、とても気持の良い日曜日で、あたりの木々や、建物や、店のショーウィンドウが春の日差しに明るく、美しく輝いていました。
そのときに僕ははっと思ったのです。僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと。そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。すごく厚かましいみたいですが、僕はそのときそう確信しました。とてもありありと。それは論理的というよりは、ほとんど直観に近いものでした。(153-154ページ)
「直観」にいたる前の風景描写が、それが天の啓示であることを強く印象づけるものになっている。人は暖かい木漏れ日を受け取るようにして光を、啓示を受け取るのだ。こうして村上春樹は小説の着想時と、その手応えにおいて啓示を感じ取り、作家になったのだ。(もちろん「ある程度の成功」にいたるには書き続けるという努力をする必要があったことは忘れてはならない)
この表現のあり方をもって、これがフィクションだといいたいのではない。たぶんフィクションだろうし、それと同じくらい事実だろう。そして真実だろう。あるいはこうした書き方をするから、村上春樹の感じた啓示が真実味を帯びるのだといいたいのではない。そんなの当たり前の話じゃないか。ただ、少なくとも、こうした語りによって、神宮球場で思いついたという一過性のエピソードは意味のあるものになっていくことを確認したかっただけだ。
この「啓示」が本当にあったかどうかということには大して興味はない。人は確かに、自分の行く末について、ある種の啓示のようなものを受け取る瞬間がある。ぼくだって高校や大学への進学、大学院への進学、職業選択などにおいてこの種の啓示を受け取ってきた。それがあるということは幸せなのだ、と思うのみだ。たとえそのようにして選んだ人生が不幸を背負い込む人生だったとしても……
そういえば、もうすぐ、ぼくの寄稿した村上春樹についての論文集が上梓される。
(このエントリーのタイトルは「猿からの質問」のコーナーのテーマ)