「東京大学で一葉・漱石・鷗外を読む」よりも前に、18日(水)には飯田橋文学会、UTCP(東大で哲学を、という主旨の組織)、東京大学附属図書館共催による「第1回〈現代作家アーカイブ〉公開録画」武田将明さんによる高橋源一郎さんのインタビューに行ってきた。発案者の平野啓一郎はこれを「アクターズ・スタジオの作家版」と説明。なるほど。高橋が断片化の手法を思いついてデビュー作となるはずの(ならなかったけれど)作品を書いている頃、村上春樹がデビューした、との前後関係に、あ、なるほど、と思い当たった。村上はアメリカ風に洗練された形でやったのだろうが、自分の『さようなら、ギャングたち』はゴダールだ、との説明に目から鱗が落ちた。
その翌週、つまり昨日、25日(水)にはセルバンテス文化センターでジュノ・ディアスの話を聞いてきた。「カリブは終わらない: ジュノ・ディアスのバイカルチャー作品」。最も印象に残った2点:まず、ドミニカ共和国はラテンの国だが、同時にカリブの国でもある。カリブにはスペイン語のみならず英語もフランス語もオランダ語もクレオール語の数々もある。だから英語で話し書くことがドミニカ共和国から離れることを意味するとは思えない。次に、文化を理解しようとしたってできはずがない。それと関係を持つこと、何らかのかかわりを持つこと、と捉えればいいのだ。
いずれも質問に答えての発話。特に後者は日本在住のメキシコ人が、日本文化を理解できない、ここが俺を受け入れてくれない、と嘆いたのに対してのコメント。すばらしい。そうなのだ。ぼくは何人かのメキシコ人が好きだ。メキシコ料理の一部が好きだ。そういう関係、それで充分ではないか。
柴田勝二、加藤雄二編『世界文学としての村上春樹』(東京外国語大学出版会、2015)。ここに「羊男は豚のしっぽの夢を見るか:村上春樹の〈キャラクター小説〉化について」という一文を寄せている。座談会にも出ている。ご高覧たまわりたく。