を試写会で見てきた。去年の東京国際映画祭で監督賞を受賞した作品だ。アイスランドのある村の人間模様、および彼らの馬との生活を描いたものなのだが、独特の味を醸し出していて面白い。人物たちが何かやるたびに遠くの隣家に視線を送る。すると、どの家でも太陽光を反射して鏡だからガラスだかが光っているのが見える。皆、双眼鏡で隣家の様子を観察しているのだ。
中心となるプロットはコルベイン(イングヴァル・E・シグルズソン)と未亡人らしいソルヴェーイグ(シャーロッテ・ボーヴィング)の大人同士の恋の行方。白い馬を愛でるコルベインはそれを駆ってソルヴェーイグの家に向かう。周囲の者たちが双眼鏡でその様子をうかがう。家に着くと中に迎え入れられ、息子と母ともども食事をする。ほとんどセリフらしいものはない。双眼鏡で覗く者の視点に立っているからだ。ふとした拍子に切り替わり、室内が室内から描かれることがあるが、そのとき、ソルヴェーイグはただ楽しそうに笑っているだけだ。この辺の演出も面白い。
いざ帰る段になってコルベインが愛場に跨がり、走り始めると、しばらくして馬は立ち止まる。最前から暴れていたソルヴェーイグの家の馬に反応してのことだ。馬は柵囲いを突き破り、白馬のもとにやって来て、交尾を始めるのだ。もうこの一瞬の出来事だけでこの映画の勝利は決まったようなもの。やられている(失礼!)白馬にまたがるコルベインすらもがやられた(失礼!)ような、恍惚の表情で身動きひとつできない。事を済ませた雄馬もまた、すっかり恍惚の態。しばらくは動くことすらできないのだから、面白い。
この映画の本領は、コルベインとソルヴェーイグそれぞれが、そんなおソソをしてしまった馬に対して取った処置に現れるし、それがクライマックス直前のシーンへとつながるのだが、それはまあ、ここでは語るまい。
11月上旬、公開だ。シアター・イメージフォーラムほか。午年の最後を飾る作品。
ついで池袋に向かい、トークセッション「これでわかるクッツェーの世界:『サマータイム、青年時代、少年時代』とクッツェーの文学」byくぼたのぞみ×田尻芳樹×都甲幸治@ジュンク堂書店 に行ってきた。表題に掲げられた「自伝的」3部作の刊行を記念してのイベント。ポストコロニアル×ポストモダンな局面だけではないクッツェーの魅力を拝聴する。
田尻さんは『恥辱』の最初の3行を読んでからやめられなくなったのだという。彼が原書で読んだその箇所を鴻巣友季子の訳でたどれば、「五十二歳という歳、ましてや妻と別れた男にしては、セックスの面はかなり上手く処理してきたつもりだ」。
うむ。ぼくも最初に読んだクッツェーはこの作品だったのだが、読み返してみると、この主人公の年齢に近づいている自分に驚く。そしてぼくはむしろ同じページの最後の文章に唸る。ここで主人公はソラヤという娼婦の常連であることを語っているのだが、その彼女について、「歳からすれば彼のほうは父親といっても通る。とはいえ、理屈からいえば、男は十二歳でも父親になれる」(早川書房、5ページ)。
さすがだ。