このところ、縁あって昔の友人たちに会う日が続いた。会えば会うだけぼくは孤独に陥る。
『早稲田文学』2014年秋号には「若い作家が読むガルシア=マルケス」という特集があるのだが、「新世代の幻想文学」というのももうひとつの特集で、それ以外にもクッツェー、デリーロ、ノーテボーム、トルスタヤらの翻訳、松田青子、多和田葉子、蓮實重彦……と執筆陣も豪華な上に、田中小実昌の未発表原稿まで掲載されていて、これが何より嬉しい。
が、ここで記しておきたいのは斎藤美奈子「村上春樹の地名感覚ーー中頓別の事例から」(198-202)。
初出時、物議を醸し、単行本『女のいない男たち』に収録されるに際して書き直された「ドライブ・マイ・カー」(『文藝春秋』2013年12月号)の問題を扱っている。北海道の中頓別町というところの出身の登場人物が、タバコを窓から投げ捨てたことに対し、語り手もしくは視点人物が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と考える一節の問題だ。これに中頓別町議が連名で抗議、作家は素早く対応して、謝罪を発表し、単行本では上十二滝町という架空の地名に換えたのだった。
これに対し、大別して①フィクションなんだから目くじら立てるな、②せっかく中頓別町が全国に、全世界に知られるチャンスだったのにそれを逸した、という2つの反応があったとまとめるところまでは、おそらく、誰でもできるだろう。が、そのいずれも否定するところが斎藤美奈子の冴え。さらには②のタイプの反応を「あまりにも広告代理店式の発想で鼻白む」と評するところなど、虚を突かれるのだ。
「車がなければ生活できない」場所で、しかも「一年の半分近く道路は凍結する」、そんな町で「十代の初めから車を運転」していたからテクニックだってうまくなる、というこの問題の中頓別町出身の女性運転手渡利みさきの説明が、フィンランドから優れたカーレーサーが多く輩出されたことの説明として引き合いに出される「フライングフィン」の言説なのだとしてそこに一種の「オリエンタリズム」を読み取るに至っては、目から鱗が3枚くらいは落ちる。
「ドライブ・マイ・カー」は、その運転手みさきに、家福という人物が自らの死んだ妻のことや、その妻と浮気していた人物との奇妙な友情関係のことを語るという内容で、ぼくはここに、誰かが別の誰かに自分の体験を語るというだけでひとつの短編小説は成立するという、そのパターンのみを読み取っていた。うーむ。教えられたのだった。
ところで、この点に関して、単行本では、村上春樹が珍しくまえがきを添え、いささか抽象的に触れている。これなど作家の意趣返しのようにも思える、というのがぼくの当初の感想。謝罪でも、単行本読者に対する丁寧な説明でもない、意趣返し。その「意趣返し」の嫌味さも少し気になるところではあるのだった。