2014年8月19日火曜日

ご当地映画、との意識はぼくにはないのだが……

河瀬直美というと『萌の朱雀』の印象が強いのか、山のざわめき、森のささやきを撮るシネアストだと思いがちだ。その彼女が、実は親をたどるとそこに行き着いたという奄美大島を舞台にした映画を撮るとなれば、うむ、これは観てみようと思うわけだ。今度は彼女はサトウキビのさざめきと波のうねりを映像化したのだった。

河瀬直美というと、ロケ先に深く入り込んで脚本を書き、派手なキャストは使わず、むしろ市井の人々を起用して不思議な演出をするシネアストとの印象が強いのはやはり『萌の朱雀』のせいなのか? 今回、確かに、松田美由紀、杉本哲太、渡辺真起子に常田富士男まで起用して普通の映画なのだが、それでもやはりそこは独特な演出が効いていたのだ。何というのだろう、プロの役者の見せる安定した、演技として自然な(しかし自然な振る舞いとして不自然な)それでもなく、素人や駆け出しの役者の見せる演技としても自然の振る舞いとしても不自然なそれでもなく、なんだか間が面白い。意外にそれは、スッピン(もしくはそう見えるメイク)の俳優や環境音(木々や波のざわめき)との関係、映像との関係などから産み出されるものかもしれない。うまく把握できていないけれども、そんな気がした。

物語は高校1年生のカップルそれぞれの母との決別/和解を扱ったもの。界人(村上虹郎)は離婚した母・岬(渡辺)に連れられて東京から島に来た。父・篤(村上淳)は東京で画家を目指しながらも彫り師をやっている。物語は界人が海に浮かぶ刺青の入った全裸の水死体を見つけるところから始まるのだが、彼はその水死体に囚われているらしい。物語も終盤になって明らかになるのは、それが母の愛人ではないかと疑っていたということだ。杏子(吉永淳)は死の床にある母・イサ(松田)との別れの準備ができないでいる。ユタ神であるイサは命は受け継がれるものだとの世界観を伝えようとするのだが、高校生1年生にはすぐに納得できるはずもない。

と、概要を書いてふと思ったのだが、演出の不思議さというのは、たとえば、実の親子である村上淳と虹郎を劇中の親子として、離婚して自分を捨てた父親として対峙させているところからも来ているではなかろうか。父に運命の出会いの意味を問う息子は果たして村上虹郎なのか界人なのか、一瞬、説明がつかなくなるような表情をする。(ちなみに、虹郎の母、淳の妻UAも親は奄美の出身だ。彼女もかつて朝崎郁恵に↓の「いきゅんにゃ加那」を習っていたのをTVの深夜のドキュメンタリーで見たことがある)

死の床でイサは「いきゅんにゃ加那」を歌えと懇願する。それに応えた周囲の人々はさらに八月踊りまでしようと言い出す(オープニングに披露される踊りは「さんだまけまけ」だと認識できたのだが、この時の曲はなんだったか?)。〆に六調まで踊り出す。こうした細部を観光案内的だとみる人はいるかもしれない。けれども、恋人との別れ歌と解釈できる歌と、要するに盆踊りである八月踊りで死者を送りだすというのは、死というものに対するひとつの解釈なのだと思えばいい。

重要なポイントを担っている要素の一つは山羊をしめるシーン。オープニング・シークエンスと中ほどに出てくる。常田富士男の亀じいが山羊の喉を切って血を出し、殺すのだ。それを若いふたりと杏子の父・徹(杉本)が手伝い、見守る。山羊はなかなか死なずに、悲痛な声を挙げている。界人は顔を背ける。杏子は閉じていた山羊の目が見開かれた瞬間、「魂、抜けた」と叫ぶ。次のシーンでは杏子たちが家族3人で山羊汁を食べているのだ。冬瓜と一緒にスープにしたものを。食物連鎖と命の、魂の連鎖。



そうそう。ロケ地の用安海岸からは決して見ることのできないシーンが、この映画には、一瞬だけ出てくる。それが美しい。それが何かは、地図を見て考えてくれ。