2013年1月8日火曜日

象を撃つ


三浦玲一編著『文学研究のマニフェスト--ポスト理論・歴史主義の英米文学批評入門』研究社、2012

編者三浦玲一によるはしがきには「マニフェスト!」という「!」つきの題が冠され、意気がこもっているのだが、要するに文学研究の方途としての理論の現在を見直し、同時にその入門書としての機能も担わせた1冊。

「II 文化研究以降のマルクス主義批評」河野真太郎「文化とその不満:教養小説の終わりと『怒れる若者たち』」(31-62)の第一、二文「『文化』という言葉の用法について、ひとつの特徴を指摘したい。『文学』は不思議なことに『文化』には含まれなくなっているのだ」(31)に目から鱗が落ちる思いをして、かかる文化の窮状が社会と文化を分離する歴史的な考え方の帰結だと説得され、それにレイモンド・ウィリアムズの二重視(double vision)の語が適用されるのを確認したら、「VII ポストコロニアリズムは終わったのか」中井亜佐子「対位法の時空間:歴史を読む/サイードを読む」(179-205)でサイードのいわゆる「対位法的読み」の解説を確認するといいかもしれない。「ここで理論は、作品に当てはめるとそれが分析できる魔法ではなく、ある時代に作られた読解の制度として、また、歴史は、そこに作品が還元されるべき証拠としての事実ではなく、その時代の言説を構成する一部として取り扱われる」(iv)と三浦がまとめていることが納得できるというもの。ウィリアムズにしろサイードにしろ、一元的解釈ではない態度でテクストに対峙したということを、範例としてこの書は示そそうとしているのだろう。

つづけて、「『文化と社会』の分離の系譜の転換点は、五〇年代に求めることができるし、マルクス主義(批評)の文化左翼化の系譜もまたしかり」(50)との、同じく河野の示唆を受けて、今度は編者三浦玲一による「III イデオロギーとしての(ネオ)リベラリズム」「『文学』の成立と社会的な想像力の排除--『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の現在とコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』」(63-90)を読めば、相互の対応関係がはっきりするのではないか。そしてまた先に引いた三浦まえがきの後半部「歴史は、……その時代の言説を構成する一部」云々が得心されるのではないか。

1951年に発表されたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(本書では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と表記)に対するカルト小説的読みと象徴解釈的な読みを退け、戦後の冷戦リベラリズム期に受け入れられるべくして受け入れられた歴史的産物であり、かつ、そこに対する冷然たる批判的視座も有する作品としてこれを歴史化するこの三浦論文は、題材がおそらく最もポピュラーなものであるだけ余計にそうなのだが、やはりこの論文集最大のハイライトだ。

ところで、河野が導入しているウィリアムズの「二重視」の概念。ぼくは寡聞にして知らなかったのだが、これはオーウェル論で展開されているのだという。「オーウェルが帝国の官吏としての仕事をすることと、帝国主義の全体について批判的な視座をもつことの二重性を、この言葉は示している」(41)らしい。今、手もとに現物がないので確認できないのだが、エッセイ「象を撃つ」などはオーウェルのその二重性がよくわかる文章だったように記憶する。

赴任先のインドで、象が逃げ出して暴れているとの報をうけてその場に行ったオーウェルは、唯一象を鎮める権利を持った人間としてライフルを構え、そんな期待が自分に向けられていることを感じ、しかし、だからこそ象を撃つことができずに立ち往生する、そんな内容のエッセイだったように思う。時々、悪夢のように思い出される文章だ。