2013年1月21日月曜日

地でいく


先日のゴールデン・グローブ賞の授賞式で、ジョディ・フォスターが正式に自分がレズビアンであることを認める発言をした。そのことをぼくはCNN Méxicoの報道で知ったのだが、日本であまり報道されていないように思うのは、それがもう周知の事実、というか、公然の秘密のようなものだったからだろうか? 彼女にニュースバリューがないというわけではない……と思う。思いたい。

そんなことを考えていたら、

竹村和子『彼女は何を視ているのか:映像表象と欲望の深層』(作品社、2012)116-120ページの、アンドレ・テシネ『夜の子供たち』映画評に出くわした。そこで竹村は男たちの欲望の対象たる女優としての役割を引き受けてきたカトリーヌ・ドヌーヴが晩年、養女や教え子、年下の女たちへのホモセクシュアルな欲望を包み隠さず表現する役柄を引き受けるのは当然の成り行きなのだ、というようなことを論じていた。(『ドヌーヴ』という名のレズビアン雑誌があった、なんてことも!)

うーむ。これは『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハ/ダーク・ボガード/ルッキーノ・ヴィスコンティの裏みたいなものかな? などと思ってしまうぼくは理解が浅薄かな? でもヴィスコンティなんてやおい腐女子がきゃー! と叫びそうな映像だものな……

閑話休題。

そういえばジョディというのは、少女性愛(ペドフィリア)の対象のような役割を引き受けていたのだった。たくさんのストーカーを生みだしたのだった(一番派手な例が『タクシードライバー』におけるロバート・デ・ニーロ……?)。その彼女が、人工授精で子を儲け、常に決まった女性のパートナーとともにいることは、竹村の描く「女たちの連帯」を地でいっているようなものなのだろうな。

ジョディ・フォスターはぼくよりもひとつ年上、ぼくの憧れのお姉さんなのだった。