2013年1月7日月曜日

いいまつがい


尾田栄一郎『ワンピース』(集英社)

なんてのを、訳あって、ぱらぱらとめくっている。

第三巻「偽れぬもの」の巻(2000〔20刷〕)の97ページにこんなセリフがある。ある島で宝石箱にはまったまま抜けなくなり、そこに居座った人物のものだ。

この島にたった一人、永遠20年この姿だ!!!

……

これ、たぶん、「延々20年」の勘違いだ。「永遠」ではなく、「延々」。「惜しい」を「欲しい」と勘違いするような、わずかな音の差から生じるもの。

尾田栄一郎を批判しようというのではない。このことで『ワンピース』の価値が、それがあるとすれば、貶められるとは思わない。井筒和幸は、ある連載で、年末に公開されていたらしい映画版『ワンピース』をけなしていたが、これは映画の問題。ちなみに、ぼくのこのマンガに対する印象は、マンガの構成の概念が根本から異なる作品だというものだ。ぼくらの見知ったものでない作り方がなされているので、様々なノイズを感じる。それがいいのか悪いのか、まったく判断がつかない。理解不能なマンガだ。

で、ともかく、この種の勘違いはよくある。「延々」を「永遠」と発話するような言い間違い。

音の微妙な差異ではなく、文字の微妙な差異から、ぼくが一度犯してしまった間違いは、「あまつさえ」を「あまっさえ」といってしまったことだ。「ウォツカ」が「ウォッカ」ですっかり定着してしまったようなものだ。「トロツキー」を「トロッキー」と間違えるようなものだ(これについては中野重治がどこかで書いている)。ぼくは「あまつさえ」を「あまっさえ」と書いてしまった。

ある翻訳をしているときのことだ。この間違いを正してくれた編集者は、しかし、面白いことを教えてくれた。ある程度の間違いを犯し、それを指摘されても、こうして間違えて認識してきたのも自分の人生だから、間違いは間違いのままで押し通したい、と主張する人もいるのだとか。言語に対する不遜な態度だと思うが、不遜がきわまって逆にあっぱれ。そのときはそう思ったものだ。ぼくはこんな態度は取れない。

あ、でも、ところで、あれかな。この「永遠20年」も作者と編集者との間にそんなやり取りがあったのかな? 「先生、これ『延々』が正しいんじゃないですか?」「え、そうなの? 知らなかった。でもなんだか『永遠』の方が本当にうんざりするほど長い感じで良くない? これでいこうよ」「そうですね。先生がそうおっしゃるなら」……とかなんとか。