2013年1月12日土曜日

正しい「父殺し」のために


体罰、などと婉曲語法(暴行や恐喝を「いじめ」と、売春を「援助交際」と言くるめるやり方)でごまかされた暴行傷害事件が原因で高校生が自殺し、そのことが問題になっているので、TwitterでもFacebookでも多くの人が体罰について書いている。桑田真澄のこの発言などは、すばらしい。

一方で、同じ『朝日新聞』では、そのちょっと前に、こんな発言が報じられていることも忘れてはならない。これが文部科学副大臣を務める谷川弥一の言葉だというのだから、暗澹たる思いだ。われわれは谷川弥一の名を心に刻んで、決して忘れないようにしなければならない。

こんな時期だというのに、昨日ぼくが目にしたのは、言葉を失わせる光景だった。あるTVの夕方のニュースショウで、その局で今度始まるらしいドラマの宣伝をしていた。それ自体は珍しいことではないのだろう、が、そこで流れたその新作ドラマのハイライトシーンというのが、子を殴る父のシーン。そしてその父役の俳優が、自分はこんなことはなかったが、昔の父親にはこうしたのが多かった、そんな昔ながらの父親だ、と自らの役柄を紹介し、それに合わせるように、プレゼンターが、昭和の時代のいいお父さんですね、というようなことを言う瞬間だった。

うーむ……

子を思う気持ちの強い父(そういう役であるらしい)であることと、その良き父が暴力をふるうことは別ものなのだ。今、このシーンを流しながら父の心情を褒め称えることは、「体罰」(暴力)容認を意味しうることだとは気づかないのだろうか? とぼくは言葉を失った。

いかにも、ぼくらの父の世代は怖かった。暴力をふるう者もいただろう。ぼくは生まれる前に父を亡くしているので、そんな思いはしなかったが、父の横暴に恐怖する子は、ぼくの周囲にはたくさんいたように思う。ぼくは、自分には父がいなくて本当によかったと、心底思ったものだ。父は子を社会化する存在だろうが、暴力に乗じて社会的規範を植えつけるなら、それはショック・ドクトリン(ナオミ・クライン)と一緒ではないか。つまりは洗脳ではないか。

ところで、この体罰問題について論じたものの中で、ぼくが最も虚を突かれたのは、内田樹の「「挨拶代わりに殴る」というような先生もいました。彼らの多くは復員兵でした。下士官だった教師はとくに殴るのが上手でした。片頬だけ笑いながら、鮮やかなビンタを決めました」というTwitter上での回想だ。

学校での暴力(体罰)は、戦中戦前の軍隊の遺制であり得るということだ。すべてとは言わないけれども。そしてまた軍隊の遺制ということは、戦中戦前の時代の遺制でもあるだろう。内田の回想の前半はそういう意味だ。桑田真澄の指摘が及ばなかった歴史的な問題がここには含まれている。暴力を体罰と呼んで問題を隠蔽することは、歴史をも隠蔽することであり得るかもしれない。

他方、内田の回想の後半、殴るのがうまいのは「下士官」だったという指摘は、矢作俊彦の「体罰は不要。卑怯な行為だと桑田真澄。対するに自分も殴られて育った。今も恩師だと長嶋一茂。考え方、受け止め方の違いというより、立場の違いだろう。誰も長嶋茂雄の伜を本気じゃ殴らない。体罰を日常化しているような『教育者』は、殊に。目下の決してやり返せない者を殴る奴は目上に揉み手が通例」とのTwitter発言に根拠を与えもしよう。同時に、暴力が常態化した関係において、殴る側に芽生える快楽をも指摘しているようで薄ら寒い。「片頬だけ笑いながら」のビンタ。不気味だ。