ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー:ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』土田知則訳、岩波書店、2012
今年2冊目のド・マンの翻訳だ。堂々たる主著。
このド・マンを中心とするいわゆるイェール学派の読みの実践について、土田は「訳者あとがき」(395-403)で実にうまく紹介している。
従来の文学研究は、テクストのうちに中心的なテーマを仮構し、それを統一的な意味や論理に収斂しようと努めてきた(批評界の主流は今でもそうした実践に与している)。脱構築批評は、こうした統一的・総体的な読み方に真っ向から異を唱える活動だったと言える。つまり、言語やテクストに内在する逸脱的な諸力――レトリック、アポリア、パラドックス、等々――を前景化することで、テクストを脱-中心的、脱-総体的なものとして分析・読解しようとしたのだ。『読むことのアレゴリー』は、まさにそうした諸力に対する鋭敏な意識に貫かれた論文集である。(397)
さすがは文学理論の泰斗、土田先生、まとめがうまい。なるほど、元来が脱-中心的なものである言語に沿って精読した結果生じるこうした脱-中心的、脱-総体的な読み方を、ド・マンらに教えられ、ぼくも実践してきた(つもり)のだった。
いや、実際、驚いたことに(?)、翻訳を手に取ってふと気にかかり、原書を引っ張り出してみれば、ちゃんと付箋が貼られているし、中には書き込みやらチェックやら下線やらが引いてあり、ページの端が折ってあったりもした。
つまり、ぼくはこの原書、Allegories of Reading をかつて、読んでいるのだ。なあんだ、俺、ちゃんと勉強しているんじゃないか。土田は名を挙げていないけれども〔多くの場合、挙げられないけれども〕、ド・マンにブルーム、ハートマン、ヒリス・ミラーだけがイェール学派なのでなく、たとえばロベルト・ゴンサレス=エチェバリーアというのもいて、彼のカルペンティエール論に導かれ、ぼくは勉強を始めたのだった。
さて、そのことは今はいい。ともかく、こうしたとき、つまり、既に原書を読んである翻訳書を買ったときの常として、原書に付箋のある部分は、翻訳にもまず貼ることにする。たとえば、以下の部分だ。
したがって、読むことは、テクストのはじめから、脅迫/防御という劇的抗争の中での守勢的な動きとして演出される。内部の守護された場所(巣窟、小部屋、寝室、秣小屋)は、外部世界の侵入に対してみずからを防御しなければならないが、その外部世界からいくつかの属性を借りてこなければならない。(略)テクストは、内的な瞑想が遠ざけてしまったすべてのもの、その〔瞑想の〕充足に必要なすべての力=性質に反するもの、つまりは日射しのあたたかさや明るさ、安らかな不動性によって決定的に排除されてしまったと思われる活動性さえ、読むという行為によって回復できると主張する。〔79-80下線は原文の傍点〕
第1部第2章「読むこと〔プルースト〕」からの抜粋だ。『失われた時を求めて』が読むことを巡る小説であり、その中でマルセルが内/外、真/贋、脅迫/防御の二項対立を想起しながら、読書のための理想空間である小部屋を、ベッドの中を確保しようとしていることを指摘し、が、読むことはそんな二項対立の一方の極で理想どおりに得られる体験ではないことすらも書かれていると暴く一節。日陰の涼しい場所において安らぐマルセルはしかし、光によって読書し、夏の光と暑さを回復するのだと。
ド・マンは精読という概念を楯に彼の批評を展開するのだけど、精読しろというのは、ただ一字一句文字を丹念に追っていくことのみを意味するのではない。そもそもプルーストが読書についての話を展開していることに気づくこととセットになったときに初めて力を発揮するのだということがわかる一節。