しばらく更新を怠っていたが、一週間前、神戸に行き、その翌日、神戸市外大で博士論文の審査をしてきた。つまり日曜は神戸で一泊したということだ。卒業生で神戸および宝塚在住のカップルと食事し、酒を飲んだ。翌日の審査が午後からで良かった。
月曜日の博士論文審査後は旅行を楽しむ余裕もなく帰宅、翌日にはぼくの勤める大学で修士論文の審査。三件。水曜日はシラバス記入の締め切り日だというのに朝から会議ずくめ。
その後は一心不乱に試験やレポートの採点をしている。目がしょぼしょぼする。
で、今日は散歩がてら買ってきた。
フンボルト『自然の諸相:熱帯自然の絵画的記述』木村直司編訳(ちくま学芸文庫)
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』田崎・大野・堀訳(岩波現代文庫)
パヴェーゼ『流刑』河島英昭訳(岩波文庫)
ほかに、やはりちくま学芸文庫の『ゴダール映画史〈全〉』も買いたかったけれども、アマゾンに注文して到着を待っているところなので、買わずにおいた。
フンボルトは「編訳」と書いてあるのだから、全訳ではないのだろう。フランス語のファクシミリ版2巻本は研究室にあるので確かめていない。だが、少なくとも、「草原と砂漠について」「オリノコ川の滝について:アトゥレスとマイプレスの急流地帯」「原始林における植物の夜間生活」などは訳されているから、とても助かる。
メアリー・ルイーズ・プラットが、その『帝国のまなざし』で、カルペンティエールの作品(『失われた足跡』)の中にフンボルトの痕跡を読み込み、それがとても面白かったので、ぼくはかつて、上にほのめかしたファクシミリ版を数万円出して買ったのだった。写真に映っている大判の本は『キューバ島についての政治的試論』の同じくファクシミリ版。図版がとても美しい。
さて、その『自然の諸相』。アプーレ川とオリノコ川の合流地点あたりで犬がいなくなったことを想起しながら、フンボルトはこう述べる。「(略)われわれはそれがジャガーに食い殺されてしまったのかどうか不確かなまま、蚊のむらがるエスメラルダ布教村からの帰途、ふたたび同じ場所で一夜を過ごすことにした。愛犬はいくら探しても見つからなかった。至近距離にふたたびジャガーの咆哮が聞こえた。凶行に及んだとのと同じジャガーに違いなかった」(126)こうした論法をしてプラットは本当は近くにあるのに踏み込みもせずに、目に見えない大いなる自然、といったステレオタイプを作っていたのだと批判したのだった。
大いなる自然もともかく、ジャガーが犬を食ったのかどうか「不確か」だと述べたすぐ後に、「ジャガーの咆哮」が聞こえると、「凶行に及んだのと同じジャガーに違いなかった」と断言するところなど、たとえば、食人行為についての論法を思わせる。こういう非論理的な論法が、むしろ人々に何かを植え付ける効果があるのだろうな。
それとは別に、その直前にとても面白い記述がある。
上述のように、スペイン語は自然を記述するさまざまな語彙に際立って富んでいるにもかかわらず、モンテ(monte)という同一の言葉が同時に山と森、丘(cerro)、山岳(montaña)、森林(selva)に対して使われる。アンデス山脈が真にどれだけ幅があり、東方へ最大どれだけ延びているかに関する論文のなかで私が示したように、モンテという言葉のこの二義性がきっかけとなって、イギリスの広く流布したある美しい南米地図が、平原を高い山脈で覆ってしまった。他の多くの地図の根底におかれているラ・クルース・オルメディラのスペイン地図はカカオの森(Montes de Cacao)を図示していた。ところが、カカオの木が暑い低地しか求めないにもかかわらず、そこにコルディリエーラ山系ができ上がってしままったのである。(124)
最後の「コルディリエーラ山系」というのは山系(Cordillera コルディリェーラ)のことか? それともカナダのあれか? それで話は通じるか? それはともかく、言葉の多義性ゆえに確定できない現象がある。monte。今まさにぼくが悩まされている単語だ。monteとかfirmeとかcayoとか……この多義性にフンボルトは挑み、熱帯雨林やらリャノやらを仕分けていくのだな。みごとな手並みだ。