今日はマフラーも手袋もセーターも、いちいち邪魔だと思った。そんな陽気と知らず、確定申告書の提出に行った。
とって返して日比谷。文字どおり撮影。影を撮ってみた。
ロマン・ポランスキー『おとなのけんか』(フランス ドイツ ポーランド、2011)
このあいだ『ゴーストライター』を観たと思ったのに、もうポランスキーの新作を観ている。これが実に面白い。子ども同士のけんかで、加害者の両親(ケイト・ウィンスレット&クリスフ・ヴァルツ)が被害者の両親(ジョディ・フォスター&ジョン・C・ライリー)の家に話し合いに来て、和解が成立、加害者の両親が立ち去ろうとしたところで、ちょっとした言葉のやりとりが発端でふたりは居座り、とことん話をつけることになり、それぞれが3方向とけんかしたり少し歩み寄りを見せたり、……というコメディ。もともとヤスミナ・レザがフランス語で書いた戯曲が原作。加害者の両親のアパートを舞台とした展開は、なるほど、戯曲だ。
少年同士のけんかを無音で、ロングショットで捕らえた説明的なシークエンスから幕を開ける。これがよけいな説明かな、とも思うが、そんなこともなくて、きっとこれは映画化にあたって挿入した要素なのだろうけれども、ラストに笑わされる。この少年のうちのひとりはエルヴィス・ポランスキーという名だったから、監督の孫かなにかか?
メディアは先行するメディアを取り込む。印刷物(書物)は手書きの文字(手紙)を取り込む。小説は日記と手紙を取り込み、映画は鏡と写真、小説を取り込む。
ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』の優れているところは、主人公フロレンティーノ・アリサに電報技師という職業を与えておきながら、彼とフェルミーナ・ダサとの恋愛は手紙の範囲内に閉じ込めておこうとする、その明らかな時代・メディア意識にある。フェルミーナが最初の交際から51年9ヶ月と4日後にまたフロレンティーノの愛を受け入れようと決意するとき、すでに電話が引かれていたにもかかわらず、故障しているという理由で手紙で連絡するようにと言うのだ。
『羊たちの沈黙』のレクター博士はクラリスに、最後は手紙を書く。ところが映画化作品では彼はクラリスに電話をすることになっている。手紙を書くか電話をするか、それが小説と映画を分かつもの(リカルド・ピグリア——の登場人物——によれば、電話を小説内で利用した最初の小説家はヘミングウェイだとのこと)。
さて、かつてクラリスだったジョディ・フォスターがほとんどスッピンで出ているポランスキーのこの映画は、電話を、その伝達内容がプロット内で作用するという意味でではなく、電話そのもののメタ・メッセージ的領域での性格をうまく利用して面白い。早い話、訴訟を起こされそうになっている製薬会社の顧問弁護士であるアラン・カウワン(ヴァルツ)が、口論の最中、始終携帯電話に連絡を受け、話が途切れ、他の3人がますます気まずくなり、神経を昂ぶらせていくのだ。観客も太ももがムズムズしてくるのだが、めっぽう面白い。電話って本当に周囲をいらいらさせる。そんなことを思い出させる映画だ。