もう何年も前に筆を折ってしまったが、その功績において名高い名画家エルネスト・スーニガが、自分の財産の管理のようなことをしている息子のフアンを通じて持ち絵をオークションに出す。それをプラード美術館が落札する。この美術館が生きた作家の作品を買うのははじめてのことだ。それだけの価値のある画家なのだ。これはたいそうな話題になった。ところが、除幕式の日、エルネストはその絵の瑕疵に気づき、息子にあの絵を描き直したいと言い出す。息子は、当然、断る。そこでエルネストは自分の学校時代の先生で、贋作画家としての顔も持つベニートに相談を持ちかける。ベニートは美術品の盗難を生業とするビクトルに話しを持ちかける……
帯には「驚異のストーリーテラーの真骨頂」とある。「精緻な構成力/圧倒的な筆力/心震えるラスト」とある。ストーリーの面白さがウリの小説なのかとの予断を、読者は抱く。実際、上のようにまとめたストーリーは面白い、いくつかどんでん返しも用意されている。
しかし、この作家を読んでぼくが感じるのは、ストーリーの巧みさではなく(いや、巧みではあるので、それはそれでいいのだが)、むしろ、ある種の設定の作り方、トポスの作り方の特徴だ。たとえば、絵を描き直したいと言い出したエルネストを諭すために、フアンがプラード美術館の館長に掛け合い、館長はふたりの訪問を受ける。その場面。
開館前の午前八時四十五分にゴヤの『カルロス四世の家族』の絵の前で会うことになった。(78ページ)
ぼくはこの一文を読んでぶっ飛んでしまった。これはもう小説の時空間というよりは演劇的、いや映画的演出だ。このシーンの視覚的要請によってこうした設定が可能になっているのだ。
これがパハーレスのみの特徴だとは思わない。恐らく、前々から少しずつ気づきつつあったようには思う。映画的想像力が文学的想像力に先立ってあるのだ。この現象は、何かじっくり考えてみる必要があるのではないか?