イラン・デュラン=コーエン『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』(フランス、2006)
意外にサルトリアンなのだよ、ぼくは。といっても、サルトルの書いた本やサルトルについて書かれた本を数冊読んだという程度の話だが。そしてまたカルペンティエールやらバルガス=リョサやらといったサルトリアンも読んでいるという程度の話だが。
で、なんだかみんなが真剣にサルトルの書いた本の内容についてばかり語っていることが腑に落ちなかったのだ。サルトルが流行らせた実存主義という言葉が、ファッションの用語でもあったということ、つまりモードであった、流行であったということが置き去りにされているような気がしていたのだ。少なくともメキシコでは、実存主義はモードだった。とホセ・アグスティンが言っている。
『サルトルとボーヴォワール』が成功しているのは、この二人の作家の関係を気難しく哲学的に捉えようと躍起になることをせず、これがモードなのだということを示しているところだろう。ジャズが流れる(ジャンゴ・ラインハルト風のギターの入ったトリオの生演奏)酒場、どこぞのサロンでのパーティ。原題を『カフェ・ド・フロールの恋人たち』というわりに、フロールよりはそうしたシーンが印象的だ。
少なくとも、メキシコでのモード用語としての実存主義は黒いスーツに尽きるらしい。そうホセ・アグスティンが書いていた。サルトルは実際、黒か濃いグレーのスーツを、年に5着あつらえ、とっかえひっかえそれを着ていたそうで(つまり着替えているのにいつも同じスーツに見える)、そのわりにロラン・ドイチェマン演じるサルトルの服は多様に過ぎたように思うが、でもそれも、モードとしての彼の存在を誇示するのに役立っていたというべきか。
とはいえ、この映画はボーヴォワールに焦点が当てられているというべきで、そこが第二の成功点。友人の死で結婚のイデオロギーに帰着するブルジョワ嫌悪を植え付けられ、サルトルによって自由の希求を開眼され、ネルソン・オルグレンによって『第二の性』の視点に目覚め、最後は自身とサルトルの神話に殉じる決意をする。思うにとても多義的で複雑な印象を与える役だ。ヤン・クーネン『シャネル&ストラヴィンスキー』でココ・シャネルを演じたアナ・ムグラリスは、すっかりモダンな女性の代名詞となりそうな勢いだ。
ちなみに、この文章タイトルはサルトルを読む以前からぼくらの世代の者の脳裡にへばりついたひと言。サルトルと言えば、野坂昭如の声と、このひとこと。昨日、学生と話していてこのセリフを言ったら、当然のことながらわかってくれなかった。