12月の2日と3日に開かれたラテンアメリカサミットでカラカス宣言が採択され、ラテンアメリカ、カリブ諸国家共同体Comunidad de Estados Latinoamericanos y Caribeños (CELAC)が発足した。日本のテレビなどではこれを「シー・イー・エル・エー・シー」と読んでいるところもあったが、スペイン語圏の報道では「セラック」と読んでいる。
そういえばぼくは『ラテンアメリカ主義のレトリック』などという本を書いて、「ラテンアメリカ」がひとつであるとする言説の生成と変遷を分析したのだった。そこで「市場のブロック化が進んだ後に、再び古い物語が立ち上がり、ラテンアメリカの国民としての統一が唱えられないとも限らない」(96)と書いたのだった。そんな身としては気になるじゃないか。
カラカス宣言、読んでみた。
リオ・グループやCALCの達成を踏まえること、などといった前提を置くところ、「統一と多様性」を重視すること、国際社会の司法=正義に敬意を払うこと、国際的経済・金融危機がもたらす将来の危機に対処すること、などを掲げることによってこれは、新しい形の統一を目指しているようにおも思える。
一方で、独立戦争200周年を視野に入れていることやシモン・ボリーバルの思想を想起させることによって、またぞろナショナリズムの拡大版としての「古い歌」のようにも思える箇所がある。そこに、トゥーサン・ルヴェルチュールによる革命を端緒とすることが盛り込まれることによって、しかし、この「古い歌」も調子が変わっていることがわかる。「カリブ」を置くことによって、もはやスペイン語圏の統一、といった夢を描いていないことがわかる。33ヶ国参加というから、当のハイチその他、アンティール諸島の島々もこの共同体には含まれるのだろう。言語による統一という夢は前面に押し出されてはいないのだ。
けだし、「統一と多様性」、「ひとつであることとたくさんであること」、「多様性における統一」を掲げたことが、この宣言のひとつの見どころだろうと思う。対話の場であるこのCELACの向こう3年分の開催地までを明記して宣言は結ばれている。
まあぼくが『ラテンアメリカ主義のレトリック』を書いたのは「ラテンアメリカ」という概念がひとつの言説に過ぎない、と同時にその言説によって我々が現在「ラテンアメリカ文学」等々を論じているのだ、ということを示すためであって、つまり、もう「ラテンアメリカ」なんて言わなくてもすむようになるための事前準備なのであって、実際に「ラテンアメリカ」の共同体ができるかできないかにはほとんど興味ないのだが、でもまあ、言説には時代による修正が作用したり、それでも「古い物語」の残滓が残ったりすることが見て取れる。
これに対する対抗言説がアメリカ合衆国の側から形成されなくなれば、CELACはひとつのブロックとして有効に存在しうると思う。そしてたぶん、合衆国の側からの対抗言説は形成されない……?