もうだいぶ前のことになるが、前回、アピチャッポン・ウィーラセタクンの『メモリア』のことを書いた(リンク)。
このアピチャッポンの別のフィルムに魅せられて(かつフーゴー・アードルフ・ベルナツィーク『黄色い葉の妖精』を読み)タイに向かったのが金子遊。そこで言語学者の伊藤雄馬と出会い実現した映画が『森のムラブリ――インドシナ最後の狩猟民』(幻視社、2019)@シアター・イメージフォーラム。
伊藤雄馬はタイとラオスに住む少数民族ムラブリの言語ムラブリ語を調査している言語学者。一方で三つのグループに分かれてしまったムラブリを再会させたいという願いも抱いている。彼らの話では分離してしまった他のグループは身体に刺青を入れ、人を殺し、食うような残忍な連中だとのこと(これはもちろん、典型的な他者恐怖の言説)。
三つのグループのうち二つはタイの村に定住している。伊藤は(少なくもこの映画では)当初、そのひとつに留まって調査していたようである。彼の言語学的な調査に介入するように、ドキュメンタリー映画監督兼映像人類学者としての金子はムラブリの人たちに森での生活を再現するようにお願いする。すると彼らは竹を削って金具を先につけたシャベルのようなもので根菜を掘ってみせる。ふんどし一丁の格好(「森の生活」のころの出で立ちか?)で土を掘る者と、普通にTシャツなどを着てそれを見守る者、および伊藤がひとつのフレームの中に収まる。竹で枠組みをつくってバナナの葉をかけた仮住まいで火をおこして採った根菜を食べる人物の隣に実に親しげに肩を寄せるように座って別のムラブリの人々に会いたいかと訊ねる伊藤はなんだかとてもカジュアルだ。
彼のそんな気負いのない感じはこの記録にとても良い味を出しているような気がする。彼は実際、ラオスの側に住む、いまだに定住しないムラブリの人々に会いに行くのだが、近くの村にたまたま降りてきたムラブリのひとりカムノイと出会うところなど、あっけなくて演出を疑いたくなるほどだ。しかし、実はこれを手がかりに伊藤と金子が踏み込む彼らの野営地フアイハーンとそこでの彼らの生活は、こうしてカメラに収められ公開されるのは初めてのことだそうで、つまりとても貴重な記録なのだ。が、あくまでもその貴重な記録でくだんのカムノイとその妻リーが離婚するだのしないだのと喧嘩したりしているのだから、やはり微笑ましい。観る側の思い込みがここでもはぐらかされて快い。
本当は歴史的に分離してしまったエスニック・グループを再会させることは政治的行為でもあるだろう。繊細で緊張を孕むものだ。そして繊細で緊張を孕む瞬間というのは、繊細すぎてそうは見えないものである。クライマックスのタイ国内のムラブリの二つのグループの出会いはそんな感じであった。
言うまでもなく、言語学は(その一部は)文化人類学に隣接している。言語(文化)を記述する営みだからだ。バルガス=リョサの『緑の家』と『密林の語り部』、それに『パンタレオン大尉と女たち』を産み出したのは、文化人類学者フアン・コマスについていった研究旅行であり、それは夏期言語学研究所の主宰する研究なのだった。映像人類学者とそのカメラ、それに言語学者の組み合わせは最強だ。
ところで、3月20日には元同僚の岩崎稔さんの最終講義だった。久しぶりに行った多磨駅はこんな風になっていた。