2018年2月11日日曜日

最近の新書から

別に「最近の新書から」なんてシリーズを設けようとしているわけではない。先日、ある原稿を書くために、まだ読んでいなかったはずのある本(それはたまたま新書だった)を開いたら、実に、まさに読みたかった箇所に線が引いてある。書きこみもある。つまり僕は、この本に既に目を通していた(あくまでも、続けてアドラー&ドーレンの用語を使うなら、点検読書をしていた)のだった。

ふむ。やるじゃないか、俺……

でも、目を通した事実を忘れてしまっていては困る。そんなわけで、最近買った新書についての備忘録を、と思った次第。あくまでも思いつきだ。どうせまた気紛れに備忘録を残したり残さなかったりするのだ。今までもそうだったのだから。

野澤道生『やりなおし高校日本史』(ちくま新書、2018)

野澤さんは高校の日本史の先生で、自身の板書ノートをウェブサイトで公開したところ、それが評判となったのだそうだ。

「一時間目▼律令国家「日本」誕生までの道 ヤマト政権の時代――それはまったく道理にあっていない。改めよ」の冒頭では『万葉集』冒頭の歌(「籠もよ み籠持ち 堀串もよみ堀串持ち この丘に」……)を引用し、「清々しいほど見事なナンパの歌でございます。」と書き、大学で教わった犬養孝の言葉「天皇がナンパなんてはしたない、と思ったらダメです。万葉集の時代は、恋多きことは素敵なことだったのです」(13)を引いている。

さらに、生類憐れみの令を扱ったところでは、「犬小屋に収容するための犬を追いかけまわす武士を、冷やかしてはならない」という法もあったと説き、要するに生類憐れみの令が悪法なのは武士にとってのみなのだと解説する。

こうした断片を読んで買ってみたのだが、「はじめに」を読んで別の意味でびっくりした。野澤さんは1997年に「文部省日米国民交流若手教員米国派遣」の一期生としてUSAイリノイ州に長期出張したのだそうだ。事前に当時の文部省に呼び出されて言われたことは、「目的は日本を伝えてもらうことです」(8)。

USA一辺倒化と夜郎自大な自己主張、「クールジャパン」の押し売りの始まるのは、1995年に前後することなのだろうと思うのだが、文部省(当時)は、97年にこんにことを始めていたのか!

広瀬隆『カストロとゲバラ』(インターナショナル新書、2018)

ついこの間ロシア革命について同じ新書から出した広瀬隆が今度は、キューバ革命を扱っている。

残念ながら文献一覧がなく、わずかに最後の「資料」のページに7冊の書名(基本的な文献。近年の収穫は含まず)が上がっているだけなので、判断しづらい。「あとがき」を「人格者のカストロとゲバラは、一種冒しがたい風格と知性を備え、この地球が生んだ類稀なる偉大なる人物であった。二人に、永遠の敬意を払いたい。そして私たち日本人は、国家や国境という狭い料簡を捨てて、カストロとゲバラの意志を継ぐキューバ国民の人道的救済活動を世界的に支え続けなければならない。いま強く、そう思う」と結ぶのだから、二人へのシンパシーの表明なのだろう。カストロの裏も表もある政治家としてのあくどさにどれだけ斬りこんでいるだろうか? 

とても些細なことだが、やはり「あとがき」にこうある。「軍隊を持たない中米の平和国家コスタリカが「軍隊がなければ侵略を受けないのだよ。これこそがプーラ・ビーダ!(素晴らしい人生!)」と説きながら」……

うむ。この「 」が誰からのどこからの引用か確認できていないのだが、 "pura vida" という表現はコスタリカで多用されるもののようである。だが、「これこそがpura vida」と続くと、まるで "Así es la pura vida" と言っているみたいだ。そしてこれだとまるでpura(「純粋な」) はvidaを強調しているだけ(「純然たる」)のようにも取れる。つまり、"Así es la vida" (「そんなもんさ」)を強調しているかのようだ。ましてやこの文脈だと。

鳥飼久美子『英語教育の危機』(ちくま新書、2018)

これの最大の収穫(のひとつ)はいわゆる平泉・渡部論争を検討し直したところだ。当時の参議院議員・平泉渉が自民党政務調査会に提出した英語教育改革の試案に対し、渡部昇一が(『諸君!』誌上で!!)噛みつき、まるで「実用英語」対「教養英語」の対決であるかのように論争を戦わせたものだ。ここから英語教育の「実用」志向、リスニング、スピーキング志向が始まったとされる。

しかし、実際の平泉試案を読んでみると、日本人は英語を「ほとんど読めず、書けず、わからないというのが、いつわらざる実状」であるとし、実際に読み書き聞く話すの4技能に熟達する目標は「国民師弟の約五パーセント」であり、他は多言語・多文化の「常識」と英語についての「「現在の中学一年生修了程度まで」を外国語の一つの「常識」として教えることを提案した」のだそうだ。つまり、「今でいうなら「多文化学習」ともいうべき斬新な案」だったと。


元同僚だった一方の当事者に遠慮したのか、鳥飼さんはそこまでは言っていないが、要するにこれも渡部昇一がミスリードの上で論争相手を非難した、彼によくある事例なのだろう。