2018年2月8日木曜日

謬見の哀しさ

今日、あるところで、精神科医の方にご指摘いただいた。『野生の探偵たち』翻訳上巻413ページにある「境界性人格障害」は正しくは「境界知能」だろうとのこと。

ふむ。迂闊にも使ってしまったタームであった。反省しきり。

誤訳、ではなく、これは多くの人と共有しているだろう謬見、パースペクティヴの歪みについて:

昨日届いた本は以下のもの。

箕輪優『近世・奄美流人の研究』(南方新社、2018)

これの内容を大雑把に把握するために、パラパラと読んだ(ふたつ前の投稿に名を挙げたアドラー&ドーレンの用語で言う「点検読み」本はまず、こうして読む時期を決める)。そこに引用されていた他の文献に蒙を啓かれた。松下志郎『鹿児島藩の民衆と生活』からの引用だ。ここで、通常使われている「薩摩藩」ではなく、「鹿児島藩」を使うことについての理由づけの箇所。

江戸幕府が「藩」の公称を採用したことは一度もなく、旗本領を「知行所」というのに対して、一万石以上の大名の所領は「領分」と公称されていた事実を思い浮かべるべきである。「藩」という呼称が行政上のものとして歴史に登場してくるのは、徳川将軍の大政奉還にともなう王政復古後、一八六八(明治元)年閏四月、維新政府が旧幕府領を府・県と改め、元将軍家を含む旧大名の領分を「藩」として、その居城所在地を冠して呼んだ時が初めてである。行政区画としての「藩」はしかし短命で、版籍奉還から一八七一(明治四)年七月の廃藩置県まで存続しただけである。(13)

ふたつの謬見に気づかされた。はるか昔、何かで、通常「加賀の国前田藩」などの言い方をするものだが、薩摩だけは「薩摩の国島津藩」でなく「薩摩藩」を名乗った、というようなことを読んだか聞いたかしたような記憶があるのだが、藩は「「その居城所在地を冠して」呼んだのだそうだ。つまり「加賀藩」「薩摩藩」と。

ただし、ただし、ただし、それは明治維新後、廃藩置県までのわずか三年ばかりのことであると。

びっくりして調べてみれば、『日本大百科事典』の「藩」の項目にもそのことはごく当然のごとく書かれている。おそらく、これは日本史に通じた人にとっては当然の常識なのだ。

うむ、明治維新とは実に作られた伝統を我々に信じ込ませ、歴史へのパースペクティヴを歪ませるシステムであったのだと痛感させられる。

ちなみに、当該の図書、箕輪優のものは、呼称はともかくとして、奄美諸島が薩摩にとっては流人の島であったことに衝撃を受け、そんなふうに薩摩の領分の陰であった、植民地であった奄美の実態を、焼却されてしまった資料などの隙間から明るみに出さねばとの執念で遂行した歴史研究の成果だ。ベンヤミンの言う「野蛮の歴史」を回復する試み。これなくして何の明治維新150年か、との思いが溢れる。流人の種別(キリシタン、一向宗、ノロやユタまでも!)や数などを列挙した後に、一番有名な二人、名越左源太と西郷隆盛の残した文書『南島雑話』と書簡などを分析したもの。西郷の差別意識が浮き彫りにされる。それから、教育的貢献なども検討されている。


(写真は、文章とは無関係のもの。ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』堀千晶訳〔河出文庫、2018〕。かつて蓮實重彦訳で『マゾッホとサド』として出されていたものの新訳版。これは昨日買ったもの。昨日伝えた『闘争領域の拡大』とともに)