2018年2月5日月曜日

本が届いた!

今日は大学院修士課程の2次面接の日。

それとは別に、午後、ひとつ嬉しいことがあったのだが、これはその出来事の性質上、公言することはできない。

その代わり、「日本の古本屋」を通じて頼んでいたある本が届いた。

ある学生の修士論文を通じて、ある本の翻訳が存在することを知ったのだ。それで取り寄せていた。

翻訳の出版は1989年。僕が大学院に入った年だから、このころにはもう将来のことを考えてできるだけスペイン語圏の小説からの翻訳は買うようにしていたはずなのだが、それでも気づかずに見過ごしてしまっていた1冊だっのだ。

で、それを「日本の古本屋」で探したらあったので、注文した。それが、九州の古本屋から、今日、届いた。

ある大学図書館の除籍本だった。

いくら『泥棒の息子』だからって、そんなにつれなくすることないじゃないか……

マヌエル・ロハス『20世紀民衆の世界文学 泥棒の息子』今井洋子訳(三友社出版、1989)

話は変わる。数日前、ある人のツイッターでの書きこみに触れ、そこからの連想で、

M.J.アドラー、C.V.ドーレン『本を読む本』外山滋比古、槇未知子訳(講談社学術文庫、1997)

の一節を参照した。これについては以前に読んでこのブログのどこかにも書いた……と思ったら、大して書いていなかった。まあいいや。

で、以前読んだ時には気づかなかったいくつかの箇所が目についた。

 書き入れをする読者には表表紙の見返しはとても重要だ。(59)

ふむ。こんな風にノートなど取っている場合ではないのだ。

まあいいや。

 はじめに一つの逆説を紹介しよう。文学の本をいかに読むかは、知識の伝達を目的とする「教養書」をいかに読むかということよりずっとむずかしい。にもかかわらず、科学、政治、経済、歴史よりも文学の読み方を心得ている人の方が、ずっと多いように見える。これはどうしてだろう。
 小説なら読めばわかると、自分の能力を過信しているためかもしれない。だが、ある小説のどこが好きか、と聞かれて黙りこんでしまう人がよくいる。おもろかったことははっきりしているのだが、なぜおもしろかったか、その本のどこに満足したかは説明できないのだ。良い批評家でなくとも良い読者にはなれるということなのだろうか。しかし、これがすべてだと信じるわけにはいかない。十分に理解しなくては批評的に読むことなどできないのだ。小説のどこが好きかを説明できない人は、おそらく本の字面をなでただけで、その下にあるものを読みとっていないのだ。(198-199)

 最後に、小説を批判的に読む場合の規則であるが、これは、次のような心得になる。「作家が読者に経験させようとしたものを十分に感得できるまでは批判をしてはならない」。作家の創造した世界に疑問を抱かないのが良い読者である。
 (略)
 つまり、小説に対して、読者は、反対したり賛成したりするのでなく、好きであるかきらいであるかのどちらかだということを、忘れてはならない。「教養書」を批判する場合の基準は「真」だが、文学の場合は「美」であると考えてよいだろう。(207)

さ、本を読もう。ロハスを……