2017年9月11日月曜日

París, París, por fin París...

エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』木村榮一訳(河出書房新社、2017)

の書評を書いたのだが、それはあくまでも短い文章。以前もそんなことがあったが、書き足りないという思いがあり、書評には書けなかったことをここで何カ所か紹介したく。

『パリに終わりはこない』París no se acaba nunca (2003) は、かつて、2009年、外語の学生たちと読んだ作品だが、今回、その時の学生(現在は勤め人)が翻訳を買い、読んだら、あっという間に授業で読んだ箇所を通り過ぎてしまったと泣き笑いしていた。

ビラ=マタスが最初の長編『教養ある女暗殺者』を書いていたころのパリの思い出を、三日間連続の講演会で話すという体裁の小説。「私は講演、それとも小説だろうか?」

下敷きにはヘミングウェイによるパリの回想録『移動祝祭日』があるのだが、この写真に映っている章ではスコットという名のろくでもないオドラデクを登場させてヘミングウェイとフィッツジェラルドの後日譚を空想するという章。(オドラデクは『ポータブル文学小史』にも登場させている)。こんな調子だ。

書評のために取ったメモから:『われらの時代』に所収の「雨の中の猫」を講演で読み上げ、「私」はこれがよくわからないと白状する。しかし、ガルシア=マルケスはこれを「世界で最もすぐれた短篇」と呼んだと。そして聴衆に解釈を求めるのだ。そうして出てきた解釈が以下のとおり。

①……この短篇は白い象が出てくる別の短篇を思い起こさせる。実を言うと、女性は妊娠していて、ひそかに子供をおろしたいと思っている。それがこの短篇の秘められた物語である。②……この短篇は若い女性の性的欲求不満を描いている。そのせいで猫がほしいと言っているのである。③……実を言うと、この短篇は戦争が終わったばかりで、北アメリカの援助を必要としているイタリアの悲惨な状況を描いたものである。④……この物語は性交後の倦怠感を描いている。⑤……新妻は、夫の同性愛的な要望に応えるためにボーイッシュな髪にしているが、そのことに嫌気がさしている。⑥……新妻はホテルの支配人に恋をしている。⑦……男は本を読みながら、同時に妻の話に耳を傾けることはできないと言わんとしている。これは穴居時代に端を発するもので、男たちは狩猟に出かけ、女たちは洞窟に残って食事の用意をする。男たちは沈黙の中で思索することを学び、女たちは気がかりなことを口に出してしゃべり、さまざまな感情に基づいて関係を築き上げていく。(24-25ページ)

この解釈を、僕は感心して読んだものだ。確かに、「雨の中の猫」は、新婚の妻がホテルの窓から見える広場で雨に濡れている猫を拾いに行くのだが、広場に出てみるといなくなっている、そしてやがてボーイがその猫を抱いて「支配人からのプレゼント」と言って持ってくる、というだけの話だ。「氷山の理論」(「もっとも重要なことは語られない」223ページ)よろしく語られないことがたくさんあるのだろう。それが何なのかを予想するのが解釈の楽しみだが、なるほど、様々な解釈があるものだ、と感心させられる。⑤などは思いもよらなかった。

ヘミングウェイが双極性障害だったとはよく言われる話。彼のサディスト的傾向についてはレオナルド・パドゥーラが『アディオス、ヘミングウェイ』の題材にしている。そして今、ここでは(別に作家その人のと考える必要はないが)同性愛の傾向の可能性が示唆されているというわけだ。シェイクスビアとその秘めたる性向。なんだか興味深い。


ところで、『パリに終わりはこない』はビラ=マタスの別のある小説を読みたくさせる小説だ。でも「もっとも重要なこと」はここでも語らないでおこう。