今月の最初の記事も映画の話だった。
昨日は以下のものを鑑賞。
パターソンという町に住むパターソンという名のバス運転手の一週間を追ったもの。題字も、月曜から日曜、そしてまためぐってきた月曜の日付も手書き風の字幕で出ていたので、できれば日本語字幕も手書き(もしくは手書き風のフォント)にしてくれるとよかったなと思う。昔よく見た映画のように、略字体を含む手書きの字幕。ジャームッシュのようなアナクロニズムを装う作家にはそれがぴったりだと思うのだけど。
ましてや『パターソン』は、手書きについての映画だ。主人公のパターソン(アダム・ドライバー)はバス運転手で、目覚めてから車庫に着くまでの間に頭の中に転がせておいた言葉を、出発直前にノートに書きつけるのを日課としている。さらに、帰宅後、自宅地下の書斎で、詩に磨きをかける。パターソンが詩をノートに書きつけると、画面にも字幕でその文字が浮かび上がる。そしてそれが、やはり手書き(風)だ。コンピュータのワープロソフトで書くのが一般化した現在、携帯電話も持たない時代遅れなパターソンがノートに手書きで書く、これが重要。手書きだからこその失われ方をするのが、この作品の最大のドラマ。そこからいかにして再生するかがこの映画のテーマ、と言えばいいのかな?
月曜の朝、目覚めたパターソンに、まだまどろんでいる妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)が双子の親になる夢を見たと囁くところから始まる。すると、街に双子があふれ出す。いや、「あふれ出す」は大袈裟だが、通勤途中にも双子の老人がいるし、バスの客にも双子、夜の犬の散歩の途中に寄るバーにも双子、パターソンのようにノートに詩を書いている女の子も双子……まるでパターソンの日々はローラの夢の中のようだ。
ローラはそれこそ夢見る女の子で、白黒モノトーンで世界を塗り固めようとしているし、同じくモノトーンのカップケーキを焼いては、それでひと儲けしようとか、ハーレクインという名の白黒のギターを買って、これでカントリー歌手になるんだなどと言ったりしている。この夫婦の会話が、とても面白い。寝起きに交わす言葉だけがかみ合っているようだ。起きているときには、夫は妻の料理を褒めたりするのだが、果たして本当に美味しいと思っているのか、疑問だ。妻は1度も読んだことがないはずなのに、夫がノートに書きつけている詩は傑作だからパブリッシュするといいと勧め、その点でも「夢見る女の子」風だ。こうしたちぐはぐさがジャームッシュの特長と言えば言えるのだが、そこに犬のマーヴィンのコミカルさが加わって、観ていて飽きない。
映画の中で使われる詩はロン・パジェットのもののようだ。これらの詩や、それからウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩(集)をもとにストーリーを組み立て、引用から創作が成り立つことをも示していて秀逸。
詩が生まれ、再生する瞬間を映画で体験できるのだ。
その後、隣の三省堂書店で買った『ユリイカ別冊 特集ジム・ジャームッシュ』(青土社)。そして、非常勤先の教え子たちと就職を祝って食事をし、酔っ払って帰った自宅のボスとに見出した『別冊本の雑誌19 古典名作 本の雑誌』(本の雑誌社)。豪華執筆陣に紛れて、この中で南欧の古典20作について書いている。