園子温『愛のむきだし』(2008)を見て以来(つまり、それ以前は良く知らないのだが)、満島ひかりのファンなのだ。顔も体つきも、その演技にも惹き付けられてならないのだが、最近つらつらと思うことは、誰かに惹き付けられる時にたいていそうであるように、僕は満島ひかりの声が好きなのだろうということ。
そんなわけで、満島ひかりの声を活かすために作られた映画を観に行ってきた。
いや、もちろん、島尾敏雄、ミホ夫妻への僕なりの興味があるのだが、ミホ役を満島がやるのだから、もはやどちらに対する興味に導かれたのかはわからないのだ。
島尾敏雄は特攻艇震洋の部隊を指揮するために加計呂麻島の呑ノ浦にやってきた海軍中尉。そこの国民学校で教師をしていたのがミホ。二人は恋に落ち、夜な夜な浜の突端を回ったところにある塩作り小屋で逢瀬を重ねる。結局、島尾敏雄に出撃命令は出ないまま戦争は終わる。
以上が、おそらく、事実のあらまし。敏雄はそれを「島の果て」という短篇に書き、さらに後年、ミホは『海辺の生と死』に収めたいくつかのエッセイでそのことを彼女の視点からの思い出として書いた。
敏雄の短篇はあくまでも創作で、加計呂麻島を「カゲロウ島」と呼び、自らを朔中尉、ミホのことをトエと名づけている。こうした命名と小説内のいくつかの台詞やエピソードなどを盛り込みながらも、基本的にミホの回想を基に脚色したのが今回の映画。
したがって、島尾文学のいかにも島尾らしい要素の一部は脱落することになる。「島の果て」ではトエは集落の出身の者ではないことがほのめかされ、教師ではなく「部落全体のおかげで毎日遊んでくらして行くことができました」と表現され、かなり謎めいた娘として提示される。
一方で、部下たちの統制に悩む文弱な将校ぶりは、ミホのエッセイからは見えてこない部分なのだが(ミホのエッセイでは島尾隊長のカリスマ的人望が印象づけられる)、映画は敏雄の短篇からそうした要素は取り込んでいる。
結果、凛とした小学校教師ミホの声が映画全編を通して響きわたることになる。敏雄の短篇よりも大人なミホが立ち上がる。朔は「島の果て」よりも少しだけ人望を集めることになり、その代わり、深く悩んでもいる。
トエことミホ、こと満島ひかりの声の響く映画は、島尾敏雄の短篇以上に多言語的でもある。トエが子供たちに歌って教える浜千鳥の歌は、「島の果て」ではわずか2行のみ(浜千鳥、千鳥よ/何故お前は泣きますか――〔ルビ:ぬが・うらや・なきゅる〕)なのだが、ミホのエッセイでは、終戦の前々日、島尾隊長を待ちながら歌ったことになっているこの歌は、こう記される。
チドリャ ハマチドリャ(ルビ: 千鳥 浜千鳥)
ヌガウラヤナキュル(ルビ:何故 お前は 泣き居る)
カナガ ウモカゲヌ(ルビ:君が 面影の)
タチドゥ ナキュル(ルビ:立つ故に 泣き居る)
(……)
という具合に一連まるごと再現されている。
そして映画では、最初の塩作り小屋での逢瀬の時に、これがまるごと、満島ひかりの声で歌われるのだ。(歌唱指導は朝崎郁恵。たぶん、一度、彼女自身の歌が映画内で流れている……と思う)