試写会に呼んでいたただいた。試写会場があれだけの満席だったのは僕には初めての体験。
ゲバラとともにボリビアの山中でゲリラ活動をして倒れた日系人フレディ・前村については、その評伝が『革命の侍』のタイトルで伊高浩昭監修、松枝愛訳で翻訳が出ていたのだが(長崎出版、2009)、これも配給のキノフィルムズの系列(?)キノブックスから復刊されるらしい。
上映前、監督の阪本順治が挨拶に立ち、「ドンパチはありませんので。フレディでの大学での日々が中心です」と宣言。
事実、日系ボリビア人フレディ(オダギリジョー)が、革命後の政府の医学普及政策に乗ってキューバに勉強に来るところから始まる。問題は、彼らが予課を終えて大学に進んで5日後にミサイル危機(10月危機/キューバ危機)が勃発、フレディは志願して民兵となったということだ。もちろん、危機は危機で終わり、彼は学業に戻ることになる(キューバの頭越しケネディとフルシチョフで解決を見たことには怒る。それだけの社会的意識は最初から持っている人物だ)。が、2年後にはレネ・バリエントスのクーデタが起こり、祖国に帰って何かせねばと焦る。そうした巡り合わせはある。そうしてフレディは憧れのゲバラと同じエルネストの名をゲリラ名としてもらい、ボリビアに飛ぶ。
個人的にはエピローグのような最後の2分ほどはなくてもいいと思う。「ドンパチ」はもちろん、必要最小限はあった。社会参加の意識を持たない留学仲間のベラスコ(エンリケ・ブエノ・ロドリゲス)が、口説いて孕ませて子供も認知せずに捨てたルイサ(ジゼル・ロミンチャル)に対するフレディの思いが、青春映画としてのプロットを支えている。ハバナ大学の大階段と大学構内が何度も映ると、甘酸っぱい想いもこみ上げる。
この記事の表題に掲げた文章は最初からルイサを思っていたフレディが、彼女宛のラブレターを書いているベラスコ(その時点で、それが彼女宛であることをフレディは知らない)に、愛している、だけでなく「君となら死ねる」という科白もあるよねと言った、その科白だ。
この科白でフレディはルイサを口説き落とし、そして捨てた。フレディは捨てられた彼女をやさしく見守った。
そしてまるでこの言葉をゲバラに対して言ったかのように、フレディはゲバラに殉じた。
白黒フィルムによるイントロダクションと海面を映したタイトルロールが終わると、最初のシークエンスは来日したゲバラが当初の予定を変更して広島を訪問した時のエピソード。この時に愛用のニコンのカメラがやたらと強調されているように思ったのは、過日、これとタイアップのゲバラ写真展を観に行ったからだろうか?
さて、ある同業者の友人が心配していた、オダギリジョーのスペイン語はどうなの? という問題。
音節末の -s (-) が気音化する感じはうまくできていたので、最初騙されたが、やはり (-) l (-) 及びr-、-rr- 、や -u- の音など、気になる発音の癖はある。日系人としてなにがしか残らざるを得ない訛りというよりは、やはり日本語で育ってきた話者が習得したスペイン語に残す訛りといつた観は免れない。
でも、それでいいのだと僕は思う。
写真は、帰宅後、届いたエンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』木村榮一訳(河出書房新社、2017)の下に敷かれた『エルネスト』のパンフ。