原題はThe Act of Killing。 "The" が抜けてるぞ、といいたいのではない。「殺しの儀式」とかそんな題にした方が良かったんじゃないの、と思いながら見たと言いたいのだ。が、このActは「儀式」だけでなく「演技」の意でもあるのだろうとハタと気づいた。多義的なのだ。
スハルト政権下のインドネシアで一般市民が大量に殺された。プレマンと呼ばれるパラミリタリーやパンチャシラ青年団という民兵組織が、共産主義者撲滅の名目で一般市民を次々と殺していった。当時のプレマン、とりわけアンワル・コンゴという人物に焦点を当て、彼とその仲間たちに殺戮の模様の再現フィルムを撮ってもらう。そのメイキングのような体裁を採ったのが、今回の映画。
もちろん、大量虐殺の事実はショッキングである(殺人の口実にされた「共産主義者」とは、「ユダヤ人」と同じくらい悲しい存在である)。殺人者が罰されず、罪の意識も抱かず、50年以上生きてきたこと、民兵たちには現政権の大臣や副大統領らも好意的であることなども、信じがたいことである。エンドロールに流れる数多くのスタッフの "Anonymous"(匿名)の文字は、問題の根深さと難しさを伝えるにあまりある。 義憤を感じ、暗い気持ちになるだろう。コンゴなどは自分たちの記憶を「未来に残すために」と言って、嬉々として再現フィルムに取り組むのだ。
けれども、そういった暗澹たる思いをもって見てみると(観客はたいてい、これくらいの予備知識を携えて見に来るものだ)、最初は意外にも思えるだろう。笑いからスタートする。だって、演技って、周囲から見れば笑えるものなんだから。コンゴと仲間のヘルマンが、一般の人に家を焼き払われる母親の役をやってくれないか、と頼み、少し演じて例をしめしてみせる。その時、周囲は笑うのだ。
演技の困ったところは、演者が真剣に演じれば、やがて周囲の笑いが拍手へと変わるということだ。請われて女と息子が必死に「助けて」と叫ぶ演技をすれば、「カット!」の声の後に周囲は拍手を浴びせる。演者は、いつまでも泣き止まない……これがこの映画の、ひいては演技による殺しの問題の最大のポイントだ。演技が昂じて周囲(観客)も巻き込めば、立派な儀式になる。それがActだ。
最初、何人もの虐殺の現場になったある建物の屋上にコンゴを連れて行き、どんな風に殺したのかを訊ね、語らせるシーンがある。コンゴは撲殺では血が大量に流れるからと、針金を使って殺すようになったのだと、じっさいにそのしかたを再現してみせる。その映像を家で観ているうちにコンゴは、衣裳がなっていなかった、などと言い始め、演技へのモティヴェーションを高めていく。映画館前でダフ屋のようなことをしていたこのプレマンは、最初から演技への志向性が強いと言えば言えるのかもしれないけれども、スーツを着て、ボルサリーノでこそないけれども帽子を被り、ロウマッチをすって煙草に火をつけたりした日には、いっぱしのスター気取りだ。
映画後半ではコンゴが悪夢に苛まれ、うなされるようになったことを告白する。そこから彼の変化を追っていく。悪夢の根源には首を切り落として殺したある男の目を閉じてやらなかったことへの悔悟があるらしい。眼を閉じることは死者を弔うための儀式だ。その儀式が正しく行われなかったから彼は悪夢を見るのだ。だからその現場へ戻って、その時の殺しを再現しようとする。演じようとする。儀式actの欠如を演技actで補うことによる弔いだ。その時、みずから首を切られる側の演技を引き受ける彼の体が、少しずつ反応していく。既に死者のはずなのに、嘔吐しそうになっている。
過去の大量虐殺を問うているのではない。そのことは別問題だ。それを生き直すことを試みている。そんな映画だ。ドキュメンタリーの形を取っているけれども、これはつまり、フィクションの根本問題を扱っている。