先週末、9月1日には『早稲田文学』新人賞授賞式というのに招いていただいたので、行ってきた。新人賞が発表される同じ雑誌に「十二人の優しい翻訳家たち」という座談会があって、それに参加した縁で。
座談会も楽しかったのだが、新人賞の受賞者、黒田夏子さんの「abさんご」という小説がなかなか面白い。そして選考委員の蓮實重彦が、文学作品に敬意を表する手段は引用することだと思う、と言って、書き出しの数行を暗誦してみせたことにも唸ってしまった。だってその数行というのは、
aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが、きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから、aにもbにもついにはむえんだった。その、まよわれることのなかった道の枝を、半せいきしてゆめの中で示されなおした者は、見あげたことのなかったてんじょう、ふんだことのなかったゆか、出あわせなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして、すこしあせり、それからとてもくつろいだ。
というものなのだ。かっこいいのだ。
ぼくは最近、『ドン・キホーテ』の書き出しとアラルコン『醜聞』の書き出しを並べて、少し解説するという文章を書いたのだけど、そんな文章が揺らいでしまいそうなくらい、衝撃的な書き出しだ。端倪すべからざる、というのはこういうことだろうか?
日曜日は、別の原稿の関係で、何本か映画を観ていた。アレックス・デ・ラ・イグレシア『マカロニ・ウェスタン 200発の銃弾』(スペイン、2002)とか……