2011年6月19日日曜日

福嶋君のD論が本になった。

戸田山和久『論文の教室:レポートから卒論まで』(NHK出版、2002)

なんて本を手に取るのは、あくまでも学生たちの論文指導に常に迷い、悩んでいるからだ。何かひとつでも学ぶべきことがあればと思うからだ。この本は、まあ「ヘタ夫君」と先生の対話形式などを取り込み、文章も軽めにして、早い話が、ぼくがいちばん嫌いなタイプの本なのだが、それでも、ふだん学生の論文指導をしながら感じているモヤモヤを晴らしてくれるようなテーゼはいくつかある。

 ようするに、キミが見つけたつもりになっている問いが「……とは何か」という形式をしていたら、それはまだキミが問いにたどり着いていない証拠だと考えたほうがよいということだ。(59ページ)

【鉄則18】要約は文章を一様に短くすることではない。読んで報告する報告型の課題に取り組むとき、
(1) 筆者はどういう問題を立てているか、
(2) 筆者はそれにどう答えているか、
(3) 筆者は自分の答えのためにどのような論証をしているか、
の三点だけをおさえて報告すればよい。(83ページ)

さらには、木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫、1994)がこの種の論文マニュアルで最初にパラグラフ・ライティングの説明をしたものだ、と書いてあったら、そういえばこの本は持っているが、どこにあったっけかな、と探し、見つけ、読んだりしている。

さて、では次の論文は、こうしたマニュアルを読んで方法論意識を高めたぼくの見識に叶うものかどうか、見てやろうじゃないか。

福嶋伸洋『魔法使いの国の掟:リオデジャネイロの詩と時』(慶應義塾大学出版会、2011)

福嶋君は東大を出て外語の大学院に進み、そこで博士号を取得。博士論文を加筆して慶應大学出版会から出版した。表紙のイラストがすてきな本だ。が、ところで、タイトルは博士論文として出したものと同名だというが、すごいな、かつてこんなすてきなタイトルの博士論文が書かれたことがあったのだろうか? ぼくは彼の論文審査を担当した者ではないが、その能力の端倪すべからざることにかけて評判の福嶋論文は、実に蠱惑的な雰囲気を醸し出している。

 わたしたちによく知られている物語が伝えるところによれば、子どもの魔法使いが修行のために魔法の国から出てわたしたちの世界を訪れるときには、素性を隠し、わたしたちの誰とも変わらない、ごくありふれた誰かとして振る舞うことが定められているという。そしてもし誰かに正体を知られてしまったときには、人びとの記憶のなかからその魔法使いの存在は消し去られなければならない、と。(2ページ)

驚け、これが第1章の冒頭なのだ。序章は確かに論文のアブストラクトとなっており、定石を踏んでいるように見えながら、1章の書き出しからしてその定石が破られているのだ。パラグラフ・ライティングなどどこ吹く風、と笑うかの文章なのだ。そして4段落目で、

 この魔法使いは、わたしたちの言葉では、幼年時代と呼ばれている。(3ページ)

と話をまとめる。

すごい! 

これは標準的な論文の書き方を指南する上記のマニュアル類、それが推奨する論文作法をはるかに超越した上級者レヴェルの展開によって綴られた時間と言葉を巡る詩学の書なのだった。評判に違わず福嶋伸洋、ただ者ではない。プルーストを呼び出し、ボードレールに言及し、ヘルダーリンを引用しながら、幼年時代との決別とその回復としてのマヌエル・バンデイラの詩を読み解く第1章は、それ自体が詩のようだ。この章の精髄は、この1段落。

 ヨーロッパ諸語における「幼年時代(enfance, infanzia, infancia,…)」のルーツにあたるラテン語の単語 "infantia"が「言葉を用いることができないもの」という意味を持ち、そのために「幼年時代」が、語源学的に「言葉」との関わりにおいて定義されるものであるということは思い出しておくべきである。言葉によって書かれるしかない以上、詩は必然的に幼年時代とは相容れない。ドゥルモンによる簡潔な定義、「わたしたちは読むことを覚えつつ、幼年時代をわすれてゆく」はまた、「わたしたちは書くことを覚えつつ、幼年時代を忘れてゆく」と言い換えることもできるだろう。幼年時代の、豊かな詩想の源であると同時に、詩の表現が追い求めて止むことのないものである、という双面は、語源の裡にすでに孕まれている。(11-12ページ、注を省略)

かっこいいなあ。すばらしいなあ。こんな博士論文が書けるなんて、羨ましい。自分の博士論文を書き直したくなったな。