2011年6月10日金曜日

人間になりたい

ツイッター上にぼく宛のメッセージが来た。リンク先のこのブログの内容を広めたいのだと。

無視するのも素気ないかと思い、ここにリンクを貼っておく。

ぼく自身は他人が別の第三者にしかけた論戦に参加する意志は、それがぼく自身に関わってこない限り、ない。

ブログの論点は3つ。1)『アラトリステ』字幕には決定的な誤訳がある。2)それを導いたのは条件法の文章のニュアンスを取れなかったことに由来する。3)DVD化の際やウィキペディアへの記載など、誤訳訂正の機会の芽が摘まれてしまったことは遺憾である。

3)については、それこそ、第三者間の論争だし、ぼくはあずかり知らない。(日本版ウィキペディアは、最近ではだいぶ改善されてきたとはいえ、ぼくはリファレンスとしては端から信頼を置いていない)

1)についても、ぼくはさして『アラトリステ』には興味もないし、そもそも原作も読んでいない、映画も見ていないので、きっとそうなんだろうな、という以上のことは言えない。2)に関してなら、本当に条件法のニュアンスを取れないで翻訳に携わっている人は多いし、それは由々しきことであると言いたい。逆に言えば、この種の不備はたくさん見出される。

条件法というのは、(少なくともぼくらの世代ならば)入試英語の勉強において、たとえば、 "If I were a bird, I would fly to you." なんて構文として示されたことで馴染みのもの。この構文がこのまま使われれた場合ならともかく、帰結節の would だけが出てくる場合など、この前提に条件節の過去の文が暗黙裏に想定されていることが忘れ去られ、人はミスを犯してしまいがちなのだ。スペイン語なら過去未来形と呼ばれる活用をする動詞だ。学部の学生くらいだったら、限りなく100%に近い数の学生が、この時制の特性を取り違える。いちおうぼくはこの時制に関する注意を常に喚起しているつもりではあるが、2年生の講読レヴェルだとどれだけ口を酸っぱくして注意してもなお多くの学生が2度も3度も取り違える。ぼくはときおり、日本人には条件文というものを理解する精神構造が欠けているのではないかと詠嘆したくなるほどだ。

ありもしないことを空想するのは人間の特性だ。事実に反する仮定とその帰結を述べる条件文は、従って、人間に特有の言語表現だ。これをきちんと把握できるようにしたいもの。

(6月26日の付記:くれぐれも誤解して欲しくないので繰り返すが、ぼくは『アラトリステ』解釈論争には興味ないし、どちらにも与する気はない。ここではこの論争に示唆され、一般論としての条件法理解の難しさを説いただけのこと)