2011年6月26日日曜日

大学を考える?

昨日の記事を書きながら、書き足そうかどうしようか迷ったあげくやめたこと:学生たちは自分たちが嫌味の対象となるときにのみ空気を凍りつかせるわけではない。まったく利害関心のないはずの他者が愚弄されているときもそうなのだ。それがぼくには不可解な話。きっと彼らはとても心根が優しいのだろう。第三者の悪口を言って笑っているぼくなど、卑怯な小心者と映るのだろう。

いちばん最近の例:ある日、前日の授業の教室に忘れ物をしたので探しにいった。その日のその時間(ちなみに言うと、1限だ8:30-10:00だ)の授業が終わったところだった。忘れ物はそこにまだ置かれていたので、安心した。それは別として、その教室が、それこそ立錐の余地もないくらい満杯であったことにぼくは心底びっくりした。百数十人が入る大教室が人いきれでむっとしたのだ。

なぜびっくりしたかというと、ぼくにとってはその同僚の先生の話を聞くことは苦痛だからだ。ぼくが学生なら決して受講しないタイプの人だからだ。声が小さいし、話し方に抑揚がない。目も上げずに話すので、いったい何を言っているのかわからないのだ。おそらく彼は、自分の話が他人に聴かれるものであるという意識を持っていないのだ。そんな人の話を、よりによって満杯の教室で、暑さに耐えながら90分も聴くなんてとてもできない。しかも朝一番、1限の時間に! それなのにあの大教室が満杯だとはどういうことだ? 

という話をしたら、学生たちがぼくに対する意識の回路を断ち切ったのだ。お笑い芸人たちが俗に「ひく」と言っている状態。波が沖に向けて引くときのように、ざーっと音を立てながら聴衆の心だか意識だかが逃げていくような感覚。

ま、ぼくとしても同僚の悪口ばかり言いたくもない。学生たちの心根を慮るのもこのあたりでやめておきたい。少し一般論を。かといって、学者の中には、確実に話すことに対する意識の希薄な者がいるということを言いたいのではない。学者でなくても、話し下手なのはいる。下手というより、人前で話しているのだという意識が決定的に欠如している者は、どこにでもいる。そんな話ではない。

ぼくが言いたいのは、ぼくが驚いたその先生の授業こそが、ぼくの知らないもうひとつの東京外国語大学の実態を物語る現実なのだ、ということ。

外国語大学、などという名で外国語学部だけの大学だから、外語大というと、どうも外国語習得マニアが行く大学だとのイメージがあるのだろう。そしてそれはある一面では間違ってはいない。内部の人間たちにも、外語は外国語教育で保っているとの対外的イメージがあるはずだとの思い込みのようなものもあるに違いない(複雑な構文で語ったのは、それだけ複雑なメンタリティだからだ)。

でもここで外国語教育のみが行われていると思ったら、それは大学というものに対する認識不足だ。外国語学部というのは、経済学部に経済学関係の必修科目が多いように、外国語(学)関係の必修科目が多い、ただそれだけの存在だ。ぼくのような人間としては、外語には人文科学関係の人材も豊富にいるのだということは言っておきたい。この大学の関係者(卒業生、教員、元教員)は、高度な翻訳家集団でもある。そのことも忘れてはならない。でも、その日ぼくが垣間見た東京外国語大学は、そんなものでもない。

その先生の悪口を言うのが本意ではないので、正確な名は隠すけれども、ぼくが垣間見た現実が展開されていた授業というのは、現在のコース割りでいう「地域・国際コース」の配当の授業。地域研究(歴史学を含む)、国際関係論、およびその関連の社会科学諸分野を軸としたコースだ。そのコース配当の授業なのだ。

東京外国語大学というのは外務専門職などを多数輩出している大学でもある。そんな職業に就きたがる人たちが、主に取りたがるコース。人気がある。人気があるから、勢い、授業の受講者は多数である。そんな職業に就きたがる人々だから真面目な学生が多い。真面目だから、ぎゅうぎゅう詰めでもきっと我慢して授業に参加しているのだろう。たとえその先生が何を言っているのかよくわからない人であったとしても、必至にそこから何かを学び取ろうとしているのだろう。人いきれとは、参加者の熱気の証でもあるに違いない。そういう授業が存在するのだ。

それが東京外国語大学のぼくのあずかり知らぬ現実だ。ぼくはそれを良いとも悪いとも思わない。ただ面白いなあ、と思うのみだ。学生たちは偉いなあ、と感心するのみだ。だからぼくの授業の学生たちにも、ついつい、本題に入る前のまくらとして話したりしているのだ。そして、教室を寒からしめる。

……これじゃあ人気の授業にはなれないやね。ならなくていいけど。ぼくは数人を相手に、楽しい本でも読んでいられれば、それでいいや。それがいいや。それだって大学の大切な存在理由なんだから。