『読売新聞』書評欄「本よみうり堂」では、都甲幸治さんによる『野生の探偵たち』評。これはまだウェブには載ってない。「……本書は、強烈な青臭さに満ちている」。そう。その部分に焦点を当てるとは、さすがは都甲さんだ。「……自分たちの世代へのオマージュとして書いたらしい。そしてまた、革命や詩に憧れながらも、革命家にも詩人にもなれなかったすべての人にも本作は捧げられている。それでもいいじゃないか。あのころの友情や夢は本物だっったんだから。読んでいると必死に生きる彼らの仲間に自分もなったかのような錯覚に陥るはずだ」。
都甲さんもそうだろうが、彼より少し年上のぼくだって、もう革命や詩に憧れた世代ではない。でも、アマデオ・サルバティェラがセサレア・ティナヘーロを語り、ホセ・レンドイロがアルトゥーロ・ベラーノを語りながら、自らの詩の才能に見切りをつけ、詩に背を向けることとなった心性を語るくだりなどでは、そんなぼくでも涙が出そうになることがあった。そこを突いて都甲さんの書評は、読んでいるだけで泣けてくるなあ。
涙を拭いて(……って、本当に泣いたわけではないが)、書店に向かう。今日の収穫:
ル・クレジオ『悪魔祓い』高山鉄男訳(岩波文庫、2010)
「夢の中の言葉や酔っぱらったときの言葉がそうであるように、沈黙は、いうなれば裏返しにされた言語である。かなたにあって、告発や責任が及ぶことのない言語だ」(37ページ)
ル・クレジオは先日の『物質的恍惚』豊崎光一訳に続き、岩波文庫化だ。岩波文庫は最近、活性化しているというか、活気づいているというか……いわばインサイダー情報(?)だが、オクタビオ・パスのあの本が今年中か来年にはラインナップされるらしい。これで学生たちにも晴れて薦められる。嬉しい限りだ。カルペンティェールなんかもばんばん入れてくれるとありがたいな。そういえば『朝日新聞』では、筒井康隆が、先日のコルターサルのことにつづき、ガルシア=マルケスやその他のラテンアメリカの作家のインパクトのことを書いていた。これを機に、ぜひ!