63年8月の出来事といっても、何のことはない、ぼくが生まれたというだけのことだ。乙女座だ。わざわざ「63年」と書いたのは昨日の記事のタイトルにつられてのことだ。
8月生まれの者は夏休み中に誕生日を迎えるので、多感な学校時代に友だちから祝ってもらえないという運命を背負うことになる。ぼくもひょっとしたら昔は、誕生日を好きな友人たちに祝ってもらいたいと思いながらわくわくと待ちわびていたかもしれない。でも時期は夏休み中。みんなあちこちに出かけたり、だらだらと過ごして他人のことを忘れたり、あるいはぼくの場合、もう8月も終わろうとするころだから、ため込んだ夏休みの宿題に追われていたりしたのだろう、祝ってなどもらえなかった。……そうこうするうちに、誕生日は誰かに祝ってもらうものだという思い込みを捨てるにいたった、のかもしれない。
ま、この推測が正しいかどうかはわからない。ぼくだってたまには誕生日を祝ってもらう(ありがとう!)。でもまあ、ともかく、そんなわけで、記念日には無縁でいることが多かった。何であれ、何かの記念式典などには立ち会ったためしがない。あまり。記念日・祈念日にそのことを想起する感慨にふけることもない。コロンブスの新世界到着五百年の年が始まると、ぼくはそそくさとメキシコを出て日本に帰った。たとえばの話。
さて、今日、以前泊まったメキシコのホテルからのダイレクトメールを見て思いだした。もうすぐメキシコの独立記念日で、しかも今年は独立二百年祭なのだった。
メキシコの正式な独立年は1821年。でもこれを勝ち取るための戦争が始まったのは1810年。ドローレス村のイダルゴ神父が蜂起したときに始まる。その蜂起が9月16日のことで、だからメキシコの独立記念日はこの日とされる。パレードが開かれ、大統領が大統領府バルコニーから、目の前にある広場ソカロに集まった人に向かって、「メキシコ万歳!」等と叫ぶ。これが「グリート」Grito(叫びの意)と呼ばれる独立の日の儀式で、これはTV中継されるし、ソカロに集わない人々はTVの前で大統領とともに叫ぶ。
独立記念日だけでなく、独立の年も1810年と見なすのがメキシコの公式見解ということか、1910年には100年祭というのが開かれた。『ラテンアメリカ主義のレトリック』第1章「ルベン・ダリーオの災禍」は、この100年祭をめぐるエピソードから語り起こした。そんなぼくがそれからさらに100年後の今年、メキシコにいなくてもいいのかなあ、という気がしないでもない。でも記念日嫌いなぼくのこと、本当はそんなに行きたいわけでもない。
独立100年の際には、過去の総括として、たとえば、『100周年アンソロジー』Antología del centenario という本が何年か前から準備され、出版された。これに携わったペドロ・エンリケス=ウレーニャらを中心としたグループがメキシコの知の変革を迫った。ぼくが『ラテンアメリカ主義のレトリック』に書いたことはそんなことだった。そんな言わば潜在的な動きを知るには、数日滞在して行事に立ち会うだけでは足りない。逆に言えば、無理してそこにいなくても、努力次第で知ることはできる。
記念日嫌いなのはそういう理由だ。誕生日が8月だからではない。たぶん。
……でもなあ、それでも行きたいな。メキシコ。
今年の独立記念日は、ある大学の集中講義の日だ。みんなでやっちゃおうかな、グリート……
2010年9月11日土曜日
2010年9月10日金曜日
64/65年の断絶
あるところに短い原稿を書いて送った。それがどこかは、後ほど告知する。で、それに関係して、ある2本、ないし3本の映画を観た。原稿には2行ほどしか反映させられなかったけど、本当は200行、いや2000行でも書きたいくらい色々と考えるところがあった。そのことをさわりだけ。
観た映画は:
ロベルト・ガバルドン『黄金の鶏』El gallo de oro(1964)
と;
アルトゥーロ・リプステイン『死の時』Tiempo de morir(1965)。
この2本は、連続した年、実に短い期間に連続して撮られていながら、間に大きな断絶を横たえている。
しかもこの2本、いずれもメキシコに移住して間もないガブリエル・ガルシア=マルケスが関係した作品だ。前者はフアン・ルルフォが書いた中編小説をガルシア=マルケスとカルロス・フエンテス、それに監督のガバルドンが脚色したもの。後者はガルシア=マルケス自身の原案を彼とフエンテスが脚色したもの。
『死の時』の方は以前、メキシコのフィルムライブラリーで観たことがあった。『黄金の鶏』は、実は、初見。この作品、後者の監督、リプステインによって、ほぼ20年後の1985年、新たな脚本でリメイクされている。タイトルは『財宝の帝国』El imperio de la fortuna。ただし、日本では『黄金の鶏』として(確かフェスティヴァルで)上映されている。これは見たことがあった。でも今回、改めて見直した。「ないし3本」とはそういう意味。
さて、『黄金の鶏』。これはランチェーラComedia rancheraと呼ばれる、いかにもメキシコ的なメキシコの国民映画、当時、凋落の一途を辿っていたそのジャンルの雰囲気たっぷりで、まあ確かに随所におもしろいところはあるし、名作の誉れ高いものではあるが、やはりどう見たって凋落の途にある映画。そして『死の時』の方は、今回改めて気づいたのだが、当時まだ22歳という若いリプステインの野心に充ちた、同時代のマカロニ・ウエスタンのテイストたっぷりの実にかっこいい作品だ。原作者のルルフォとガルシア=マルケスの違いではない。ウェスタン(というか、マカロニ・ウエスタン)など、概要だけ話してしまえば典型的なランチェーラと変わりない内容だ。ハリウッドのウエスタンをマカロニ・ウエスタンが刷新したように、『死の時』はマカロニ・ウエスタン的視点からランチェーラに新たな光を当てたのだ。製作体制や監督の作家性の違いに他ならないのだ。
ここに当時のメキシコ映画の潮流とか、先日書いたチュルブスコ・スタジオのこと(『黄金の鶏』はまさにチュルブスコで撮った)、65年という年がガルシア=マルケスが『百年の孤独』についての啓示を得て書き始めた年であることなどを書けば、容易に200行、いや2000行に達しそうだろう? ……ま、きっとそのためにはもう少し勉強が必要なのだろうけど。
ちゃんとこつこつと書きためて行こう。
観た映画は:
ロベルト・ガバルドン『黄金の鶏』El gallo de oro(1964)
と;
アルトゥーロ・リプステイン『死の時』Tiempo de morir(1965)。
この2本は、連続した年、実に短い期間に連続して撮られていながら、間に大きな断絶を横たえている。
しかもこの2本、いずれもメキシコに移住して間もないガブリエル・ガルシア=マルケスが関係した作品だ。前者はフアン・ルルフォが書いた中編小説をガルシア=マルケスとカルロス・フエンテス、それに監督のガバルドンが脚色したもの。後者はガルシア=マルケス自身の原案を彼とフエンテスが脚色したもの。
『死の時』の方は以前、メキシコのフィルムライブラリーで観たことがあった。『黄金の鶏』は、実は、初見。この作品、後者の監督、リプステインによって、ほぼ20年後の1985年、新たな脚本でリメイクされている。タイトルは『財宝の帝国』El imperio de la fortuna。ただし、日本では『黄金の鶏』として(確かフェスティヴァルで)上映されている。これは見たことがあった。でも今回、改めて見直した。「ないし3本」とはそういう意味。
さて、『黄金の鶏』。これはランチェーラComedia rancheraと呼ばれる、いかにもメキシコ的なメキシコの国民映画、当時、凋落の一途を辿っていたそのジャンルの雰囲気たっぷりで、まあ確かに随所におもしろいところはあるし、名作の誉れ高いものではあるが、やはりどう見たって凋落の途にある映画。そして『死の時』の方は、今回改めて気づいたのだが、当時まだ22歳という若いリプステインの野心に充ちた、同時代のマカロニ・ウエスタンのテイストたっぷりの実にかっこいい作品だ。原作者のルルフォとガルシア=マルケスの違いではない。ウェスタン(というか、マカロニ・ウエスタン)など、概要だけ話してしまえば典型的なランチェーラと変わりない内容だ。ハリウッドのウエスタンをマカロニ・ウエスタンが刷新したように、『死の時』はマカロニ・ウエスタン的視点からランチェーラに新たな光を当てたのだ。製作体制や監督の作家性の違いに他ならないのだ。
ここに当時のメキシコ映画の潮流とか、先日書いたチュルブスコ・スタジオのこと(『黄金の鶏』はまさにチュルブスコで撮った)、65年という年がガルシア=マルケスが『百年の孤独』についての啓示を得て書き始めた年であることなどを書けば、容易に200行、いや2000行に達しそうだろう? ……ま、きっとそのためにはもう少し勉強が必要なのだろうけど。
ちゃんとこつこつと書きためて行こう。
2010年9月9日木曜日
一抹のさびしさ?
昨日紹介した田村さと子などを読んでいると、時々思うことがある。ぼくはこうして生きた作家と関わりを持ったことはないな、と。時々、外国ものの翻訳などで、「訳者あとがき」にわからない箇所を著者に質問した、などという記述がみられるが、そんなことも書いたためしがない。書けたためしがない。
ぼくがこれまでに翻訳を出した作家は、死んだ人ばかりだった。古い順に言うと、ホセ・マルティ:1895年に死んでいる。アレホ・カルペンティエール:1980年に死んだ。ぼくがカルペンティエールを読み始めたのは彼が死んで4年後のことだ。フィデル・カストロ:これは作家ではないし、生きているけど、何と言うか、そもそもアンタッチャブルだ。ロベルト・ボラーニョ:2003年に死んだ。先日書いた、訳したっきり本になっていない小説の作者はベニート・ペレス=ガルドス:1912年没。
ロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアというのは、Alejo Carpentier: The Pilgrim at Home という研究書を書いたイェール大学の先生で、その彼はこの本の第2版前書きにカルペンティエールとのつき合いを披瀝した後で、批評家は対象となる作家とはあまりべたべたし過ぎても行けない、ある程度距離を置かねば、というようなことを書いていた。
キューバ革命を逃げた家族の子供であるゴンサーレス=エチェバリーアと革命内に危うくも留まり続けたカルペンティエールの間には、ときおり、革命が介在して、うまく会えないことも多々あった、というような事情なのだが、それは措くとしても、まあそのとおりだろうなとは思う。ぼくはそもそも人見知りする人間だから、何かの仕事の都合で知遇を得ることがあったとしても、わざわざ出かけていって会おうとは思わないというのが本当のところでもある。だから本当はガボに会ったと言われても、それほどうらやましくはないのだ。基本的には。
作家ではないが、たとえばぼくは、愛してやまないシネアスト、ビクトル・エリセが『マルメロの陽光』のプロモーションで来日したとき(1993)に、1週間ほど通訳として張り付いた経験があり、そのときに名刺などもいただき、別れ際にはマドリードに来たらいつでも寄ってくれ、と言われたこともある。この1週間はぼくの人生の中で最も幸せな日々だったと言ってもいいのだけど、だからといって本当にマドリードに行った時に彼を頼っていったわけではないし、その気も起きなかった。そういう人間なのだな、ぼくは。何かの仕事の関わりで会えるならそれはそれでいい。でもその関係をがんばって保つ必要はない。関わりあいのあった時間が幸せであればいい。
おっと、そういえば今、ぼくは初めて生きた作家の小説を翻訳しているのだった。わからない箇所も少なからずある。著者に質問すべきかな? そのことを「あとがき」に書くべきかな。
それ以前に、そういえば、あるキューバの作家が日本にやって来て、その人と仕事をするのであった。10月20日(水)の話。「キューバ文化の日」という催しがセルバンテス文化センターである。その後ふたりの友情をあたため、はぐくみ、どちらかが死ぬまで持続させるべきかな? 作家というのは、あの『アディオス、ヘミングウェイ』の著者だ。
ぼくがこれまでに翻訳を出した作家は、死んだ人ばかりだった。古い順に言うと、ホセ・マルティ:1895年に死んでいる。アレホ・カルペンティエール:1980年に死んだ。ぼくがカルペンティエールを読み始めたのは彼が死んで4年後のことだ。フィデル・カストロ:これは作家ではないし、生きているけど、何と言うか、そもそもアンタッチャブルだ。ロベルト・ボラーニョ:2003年に死んだ。先日書いた、訳したっきり本になっていない小説の作者はベニート・ペレス=ガルドス:1912年没。
ロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアというのは、Alejo Carpentier: The Pilgrim at Home という研究書を書いたイェール大学の先生で、その彼はこの本の第2版前書きにカルペンティエールとのつき合いを披瀝した後で、批評家は対象となる作家とはあまりべたべたし過ぎても行けない、ある程度距離を置かねば、というようなことを書いていた。
キューバ革命を逃げた家族の子供であるゴンサーレス=エチェバリーアと革命内に危うくも留まり続けたカルペンティエールの間には、ときおり、革命が介在して、うまく会えないことも多々あった、というような事情なのだが、それは措くとしても、まあそのとおりだろうなとは思う。ぼくはそもそも人見知りする人間だから、何かの仕事の都合で知遇を得ることがあったとしても、わざわざ出かけていって会おうとは思わないというのが本当のところでもある。だから本当はガボに会ったと言われても、それほどうらやましくはないのだ。基本的には。
作家ではないが、たとえばぼくは、愛してやまないシネアスト、ビクトル・エリセが『マルメロの陽光』のプロモーションで来日したとき(1993)に、1週間ほど通訳として張り付いた経験があり、そのときに名刺などもいただき、別れ際にはマドリードに来たらいつでも寄ってくれ、と言われたこともある。この1週間はぼくの人生の中で最も幸せな日々だったと言ってもいいのだけど、だからといって本当にマドリードに行った時に彼を頼っていったわけではないし、その気も起きなかった。そういう人間なのだな、ぼくは。何かの仕事の関わりで会えるならそれはそれでいい。でもその関係をがんばって保つ必要はない。関わりあいのあった時間が幸せであればいい。
おっと、そういえば今、ぼくは初めて生きた作家の小説を翻訳しているのだった。わからない箇所も少なからずある。著者に質問すべきかな? そのことを「あとがき」に書くべきかな。
それ以前に、そういえば、あるキューバの作家が日本にやって来て、その人と仕事をするのであった。10月20日(水)の話。「キューバ文化の日」という催しがセルバンテス文化センターである。その後ふたりの友情をあたため、はぐくみ、どちらかが死ぬまで持続させるべきかな? 作家というのは、あの『アディオス、ヘミングウェイ』の著者だ。
2010年9月8日水曜日
カルタヘナにガボを訪ねる
昨日買ったことを報告した『文學界』10月号、田村さと子「ガルシア=マルケスを訪ねて——ラテンアメリカ文学の旅」(pp. 196-205)は、今年の2月、ニカラグアの詩のフェスティヴァルに招かれて行き、エルネスト・カルデナルと話し、その後ついでにカルタヘナまで脚を伸ばし、ガルシア=マルケスに会い、田村さんが出すことになっている彼についての本の話などをした、という内容。それから帰りにメキシコ市に寄ってフアン・ヘルマンにも会った、と。カルタヘナが『愛その他の悪霊について』と『コレラの時代の愛』の舞台なので、ということで、前者についての思い出や論評を絡めながらカルタヘナの街を描写している。
これからわかることは以下の3つ。1) ガボは元気だ。2) 田村さんのガルシア=マルケス論は来年の3月(望むらくは作家の誕生日の3月6日)ころに出版される。3) 『愛その他の悪霊について』が映画化され、どうやらそれがカルタヘナ映画祭で上映されたらしい(田村さんが帰国の途についた後なので、彼女は観ていない)。2) については、今年の4月、『野生の探偵たち』のイヴェントでお会いしたときにうかがっていたが、いずれにしろ、慶賀すべきこと。
サンタエーリャの短編2つを含む、「来るべき世界の作家たち」は中島京子が去年、アイオワ大学の主催する国際創作プログラムIWPで知り合った若い作家たちを一挙に翻訳紹介したもの。
田村さと子の文章の次に載っていたのが、吉田修一の『悪人』を映画化した李相日監督のインタヴュー。この雑誌を読んでいるころ、これに出演した深津絵里がモントリオールの映画祭で最優秀女優賞を受賞したというニュースが舞い込んだ。
これからわかることは以下の3つ。1) ガボは元気だ。2) 田村さんのガルシア=マルケス論は来年の3月(望むらくは作家の誕生日の3月6日)ころに出版される。3) 『愛その他の悪霊について』が映画化され、どうやらそれがカルタヘナ映画祭で上映されたらしい(田村さんが帰国の途についた後なので、彼女は観ていない)。2) については、今年の4月、『野生の探偵たち』のイヴェントでお会いしたときにうかがっていたが、いずれにしろ、慶賀すべきこと。
サンタエーリャの短編2つを含む、「来るべき世界の作家たち」は中島京子が去年、アイオワ大学の主催する国際創作プログラムIWPで知り合った若い作家たちを一挙に翻訳紹介したもの。
田村さと子の文章の次に載っていたのが、吉田修一の『悪人』を映画化した李相日監督のインタヴュー。この雑誌を読んでいるころ、これに出演した深津絵里がモントリオールの映画祭で最優秀女優賞を受賞したというニュースが舞い込んだ。
2010年9月7日火曜日
祝! 文庫化
これが文庫化だものな。感慨深いな。
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー——資本主義と分裂症 上』宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、宮林寛、守中高明訳(河出文庫、2010)
ぼくは世代の上からはしかたがないのだが、ドゥルーズ(+ガタリ)を浅田彰の明快で鋭敏な紹介に教えてもらった。この『千のプラトー』の序文となる「リゾーム」が、単独で出されたときのヴァージョンが雑誌『エピステーメー』の特別版として豊崎光一訳で出ていたので、それを古本屋で見つけて買い、「われわれは『アンチ・エディプス』を二人で書いた。二人それぞれが幾人かであったから、それだけでもう多勢になっていたわけだ」(『エピステーメー』版)という書き出しから、「なんだこれは! かっこいい!」と叫び、「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも!」という終わり近くの文章には「動かない者が一番速いんだよ、そうだよ!」と叫び返して興奮したりした。「器官なき身体」(アルトー)とか「戦争機械」とかいった、この書に由来する概念を駆使する人(中沢新一とかだな)の文章などを読みながら二次的に情報を得、そのうち、ミニュイのフランス語版を買い、フランス語の練習にと辞書を片手に断片的に読んだりしたものだ。『カフカ——マイナー文学のために』の翻訳から「言語の脱領土化」の概念を教えてもらい、彼らの書いていることが、それを起点にわかったような気になったりした。その後、法政時代にかかわったある人事案件のために『差異と反復』なんてのの邦訳も必死で読んだ。そんなわけで、本当に理解しているとは思わないが、ドゥルーズまたはドゥルーズ+ガタリには苦労させられた記憶がある。既にいくつものドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリの著作を文庫化してきた河出が、今、この大作を文庫化したというわけだ。めでたい。
フランス語で読んだときの印象が強く残っている箇所のひとつが、「学校の女性教師は、文法や計算の規則を教えるとき、何か情報を与えるというわけではなく、また生徒に質問するときも、生徒から情報を手に入れるわけではない。彼女は「記号へと導き」ensigner、指図を与え、命令するのだ」(165ページ)という4章の最初の文。ensignerという語に頭を抱えた。enseignerでないのか! が、これはしばらくして、妙に感心することになった。
さて、今日、もうひとつ買ったのが、『文學界』10月号。田村さと子が「ガルシア=マルケスを訪ねて——ラテンアメリカ文学の旅」を寄稿している。かつベネズエラのフェドーシ・サンタエーリャ「ブルンダンガの絵葉書」、「猫たちの愉楽」が尾河直哉の手によって訳されている。中島京子監修「来るべき世界の作家たち」特集の一環として。
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー——資本主義と分裂症 上』宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、宮林寛、守中高明訳(河出文庫、2010)
ぼくは世代の上からはしかたがないのだが、ドゥルーズ(+ガタリ)を浅田彰の明快で鋭敏な紹介に教えてもらった。この『千のプラトー』の序文となる「リゾーム」が、単独で出されたときのヴァージョンが雑誌『エピステーメー』の特別版として豊崎光一訳で出ていたので、それを古本屋で見つけて買い、「われわれは『アンチ・エディプス』を二人で書いた。二人それぞれが幾人かであったから、それだけでもう多勢になっていたわけだ」(『エピステーメー』版)という書き出しから、「なんだこれは! かっこいい!」と叫び、「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも!」という終わり近くの文章には「動かない者が一番速いんだよ、そうだよ!」と叫び返して興奮したりした。「器官なき身体」(アルトー)とか「戦争機械」とかいった、この書に由来する概念を駆使する人(中沢新一とかだな)の文章などを読みながら二次的に情報を得、そのうち、ミニュイのフランス語版を買い、フランス語の練習にと辞書を片手に断片的に読んだりしたものだ。『カフカ——マイナー文学のために』の翻訳から「言語の脱領土化」の概念を教えてもらい、彼らの書いていることが、それを起点にわかったような気になったりした。その後、法政時代にかかわったある人事案件のために『差異と反復』なんてのの邦訳も必死で読んだ。そんなわけで、本当に理解しているとは思わないが、ドゥルーズまたはドゥルーズ+ガタリには苦労させられた記憶がある。既にいくつものドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリの著作を文庫化してきた河出が、今、この大作を文庫化したというわけだ。めでたい。
フランス語で読んだときの印象が強く残っている箇所のひとつが、「学校の女性教師は、文法や計算の規則を教えるとき、何か情報を与えるというわけではなく、また生徒に質問するときも、生徒から情報を手に入れるわけではない。彼女は「記号へと導き」ensigner、指図を与え、命令するのだ」(165ページ)という4章の最初の文。ensignerという語に頭を抱えた。enseignerでないのか! が、これはしばらくして、妙に感心することになった。
さて、今日、もうひとつ買ったのが、『文學界』10月号。田村さと子が「ガルシア=マルケスを訪ねて——ラテンアメリカ文学の旅」を寄稿している。かつベネズエラのフェドーシ・サンタエーリャ「ブルンダンガの絵葉書」、「猫たちの愉楽」が尾河直哉の手によって訳されている。中島京子監修「来るべき世界の作家たち」特集の一環として。
2010年9月6日月曜日
チュルブスコの思い出
チュルブスコと言えば、言いたいことはふたつ。
まずひとつめ:メキシコ市にはリオRíoと名のつく通りが少なからずある。ぼくがメキシコ在住時に住んでいた家はリオ・ミスコアックとインスルヘンテス通りが交わるあたりだった。リオとは川だ。6月くらいから12月くらいにかけての雨季には、ほぼ毎日午後になると雨が降る。水はけが悪いので、通りには水たまりができる。リオ・ミスコアックは文字通り川となった。
メキシコ市はかつてテスココ湖という湖上に浮かぶ水上都市テノチティトランで、植民地期を通じて灌漑工事が重ねられた。実に1900年までだ。この途中で、水も捌けられず、埋め立てもされないまま、運河のように使われていたから、これらの道路を川と呼ぶのじゃないのだろうか? というのが、ぼくがぼんやりと考えていること。(裏付けはとれていない)
ミスコアック川はイスルヘンテス通りと交差すると、その先(以東ということ)リオ・チュルブスコと名を変える。チュルブスコ川。
このチュルブスコ川、しばらく東に進むと、コヨアカン保養地などを抜け、やがて北にカーヴし、かつてF1メキシコグランプリが開催されていたロドリゲス兄弟サーキットのあるスポーツ施設の横を抜ける。つまりは、環状線になっている。環状内回り(?)Circuito Interiorだ。この環状線が北に大きく曲がるあたりの先には(今ではあまり機能していないのかもしれない)運河がある。チュルブスコ川は本当にかつて川だったのだろうと思わせる状況証拠だ。
ふたつめは映画のことだ:メキシコやその周辺国(合衆国も、ちもろん、含む)の映画をエンドロールまで粘って観ていると、撮影所や現像所、編集スタジオとしてチュルブスコ・スタジオEstudio Churubuscoまたはチュルブスコ・アステカスタジオ株式会社Estudios Churubusco Azteca S. A.の名を目にする確率が高い。インスルヘンテスを渡り終え、ミスコアック川がチュルブスコ川と名を変えてから、15分ばかりも歩けば、左手に国立フィルムライブラリー、そしてそれと同じくらいの時間歩き続ければ(もちろん、車で行ったっていいわけだが……)、カントリー・クラブの手前に、それに負けないくらいの広さ5.3ヘクタールを誇る撮影所が姿を現す。チュルブスコ・スタジオだ。現在では公教育省SEP文化庁Conaculta配下にある施設だ。ラテンアメリカの映画のメッカにして、「映画界」の代名詞となった地名だ。
このチュルブスコ・スタジオを巡る何か面白い話がないかな、と嗅ぎ回っているのが、最近のぼく。いや、もちろん、概略とか略年譜とかでなく。
こうしたところを巡るメキシコ人たちの記憶というか、心象風景というか、そういうのを1冊にまとめられたら、と考えている次第。
まずひとつめ:メキシコ市にはリオRíoと名のつく通りが少なからずある。ぼくがメキシコ在住時に住んでいた家はリオ・ミスコアックとインスルヘンテス通りが交わるあたりだった。リオとは川だ。6月くらいから12月くらいにかけての雨季には、ほぼ毎日午後になると雨が降る。水はけが悪いので、通りには水たまりができる。リオ・ミスコアックは文字通り川となった。
メキシコ市はかつてテスココ湖という湖上に浮かぶ水上都市テノチティトランで、植民地期を通じて灌漑工事が重ねられた。実に1900年までだ。この途中で、水も捌けられず、埋め立てもされないまま、運河のように使われていたから、これらの道路を川と呼ぶのじゃないのだろうか? というのが、ぼくがぼんやりと考えていること。(裏付けはとれていない)
ミスコアック川はイスルヘンテス通りと交差すると、その先(以東ということ)リオ・チュルブスコと名を変える。チュルブスコ川。
このチュルブスコ川、しばらく東に進むと、コヨアカン保養地などを抜け、やがて北にカーヴし、かつてF1メキシコグランプリが開催されていたロドリゲス兄弟サーキットのあるスポーツ施設の横を抜ける。つまりは、環状線になっている。環状内回り(?)Circuito Interiorだ。この環状線が北に大きく曲がるあたりの先には(今ではあまり機能していないのかもしれない)運河がある。チュルブスコ川は本当にかつて川だったのだろうと思わせる状況証拠だ。
ふたつめは映画のことだ:メキシコやその周辺国(合衆国も、ちもろん、含む)の映画をエンドロールまで粘って観ていると、撮影所や現像所、編集スタジオとしてチュルブスコ・スタジオEstudio Churubuscoまたはチュルブスコ・アステカスタジオ株式会社Estudios Churubusco Azteca S. A.の名を目にする確率が高い。インスルヘンテスを渡り終え、ミスコアック川がチュルブスコ川と名を変えてから、15分ばかりも歩けば、左手に国立フィルムライブラリー、そしてそれと同じくらいの時間歩き続ければ(もちろん、車で行ったっていいわけだが……)、カントリー・クラブの手前に、それに負けないくらいの広さ5.3ヘクタールを誇る撮影所が姿を現す。チュルブスコ・スタジオだ。現在では公教育省SEP文化庁Conaculta配下にある施設だ。ラテンアメリカの映画のメッカにして、「映画界」の代名詞となった地名だ。
このチュルブスコ・スタジオを巡る何か面白い話がないかな、と嗅ぎ回っているのが、最近のぼく。いや、もちろん、概略とか略年譜とかでなく。
こうしたところを巡るメキシコ人たちの記憶というか、心象風景というか、そういうのを1冊にまとめられたら、と考えている次第。
2010年9月5日日曜日
冬を待ちわびて
それを紺ブレというらしい。最近では。ATOKでもすぐに変換されるのだから、定着しているのだろう。紺ブレ。コンブレという音だけ聞くとプルーストみたいだが、そうではなく、紺のブレザーのことだ。
ブレザーBlazerというのだから、そもそも燃えるようなblazing色の上着、つまり、赤のジャケットのことだったのだろう。それがフランネル製、金または銀ボタン、パッチポケットのスポーツジャケットの意味に転化し(『リーダーズ英和辞典』では「色物フランネル製スポーツ上着」と定義されている)、赤でなくても良くなったのだろう。ゴルフやテニスのチャンピオンに贈られる様々な色の上着となった。
「様々な色」と言っても、現実に着るもの、日常のアイテムとなったら、やはり紺やキャメルが妥当だということになり、やがて紺のブレザーは定番中の定番の地位を獲得した。
それを最近では「紺ブレ」というらしいのだ。ぼくも、高校時代にJ.Pressの紺のブレザー(当時は「紺ブレ」なんて略しかた、しなかった)を買って以来、ブランドやシルエットは変わっても、大抵、紺のブレザーを持っていた。
大抵がくたびれたり時代遅れになったりしつつあるので、新たなブレザーが欲しいと思った。夢にまで見た。久しぶりにJ.Pressのブレザーにでもしようかと思った。これならかつてガールフレンドらからもらったラペルピンやカフスボタンが良く似合いそうだし(カフスボタンというのは、当然、シャツにつけるものだが、つまり、カフスボタンつきシャツに似合いそうだということ)、ともかく、紺のブレザーを買おうと思った。
今日、新宿伊勢丹で紺のブレザーを買い、その後、元教え子やまだ教え子、もう教え子(ってのはいたっけ?)などとの食事の席に出向いた。
「何スか、それは?」
ぼくのジャケット・ケースを見て教え子が訊ねる。
「紺ブレだ」
「紺ブレって何スか? 知らないっすよ? そんな言い方、しないっすよ」
そこでまあひとしきり「紺ブレ」に対する講釈を垂れ、ともかくはそれを買ったのだと、自慢していたのだった。
でもまあ、まだそれを着るには早すぎる。早く冬が来ないかな♪
これがもらったおまけのボールペンと切り取った袖のタグ。
ブレザーBlazerというのだから、そもそも燃えるようなblazing色の上着、つまり、赤のジャケットのことだったのだろう。それがフランネル製、金または銀ボタン、パッチポケットのスポーツジャケットの意味に転化し(『リーダーズ英和辞典』では「色物フランネル製スポーツ上着」と定義されている)、赤でなくても良くなったのだろう。ゴルフやテニスのチャンピオンに贈られる様々な色の上着となった。
「様々な色」と言っても、現実に着るもの、日常のアイテムとなったら、やはり紺やキャメルが妥当だということになり、やがて紺のブレザーは定番中の定番の地位を獲得した。
それを最近では「紺ブレ」というらしいのだ。ぼくも、高校時代にJ.Pressの紺のブレザー(当時は「紺ブレ」なんて略しかた、しなかった)を買って以来、ブランドやシルエットは変わっても、大抵、紺のブレザーを持っていた。
大抵がくたびれたり時代遅れになったりしつつあるので、新たなブレザーが欲しいと思った。夢にまで見た。久しぶりにJ.Pressのブレザーにでもしようかと思った。これならかつてガールフレンドらからもらったラペルピンやカフスボタンが良く似合いそうだし(カフスボタンというのは、当然、シャツにつけるものだが、つまり、カフスボタンつきシャツに似合いそうだということ)、ともかく、紺のブレザーを買おうと思った。
今日、新宿伊勢丹で紺のブレザーを買い、その後、元教え子やまだ教え子、もう教え子(ってのはいたっけ?)などとの食事の席に出向いた。
「何スか、それは?」
ぼくのジャケット・ケースを見て教え子が訊ねる。
「紺ブレだ」
「紺ブレって何スか? 知らないっすよ? そんな言い方、しないっすよ」
そこでまあひとしきり「紺ブレ」に対する講釈を垂れ、ともかくはそれを買ったのだと、自慢していたのだった。
でもまあ、まだそれを着るには早すぎる。早く冬が来ないかな♪
これがもらったおまけのボールペンと切り取った袖のタグ。
2010年9月4日土曜日
翻訳の楽しみ=味わいgustosa traducción
料理がとても重要な役割を果たす小説を訳している。
まだトップ・ギアには入り切れておらず、思ったよりはかどらない。
昨日、あるところを訳しながら、あることを思いついた。そうだ! この料理を実際に作ってみればいいのだ。毎晩小説内の料理を作ることを目標に、1日の間に、次の料理の叙述があるところまで訳す。いい考えじゃないか。翻訳を楽しみ、料理を楽しむ。こんな贅沢な話はない。さっそく実行に移そう。
まず、舌平目のフィレ、シャンパン・ソース和え。
舌平目なんて久しぶりだな。近所のIY堂には売ってるだろうか? 捌いたことないけど、できるのかな? ナツメグなんてのも、そもそも売っているのか? 自分で料理に使ったことないぞ、などとワクワクしながら材料を書き出そうとした。が、舌平目だのナツメグだのの前に、そもそも躓いた。
「シャンパンをボトル半分」
リッツ・ホテルでの高級料理なのだった。シャンパンをボトル半分も使うなんて、できるはずないじゃないか! ぼくの一ヶ月ぶんの食費が飛んでしまう。
やれやれ。しかたがない。今日はくろ黒亭で豚シャブだ。えへへ。これはこれでうまい。
まだトップ・ギアには入り切れておらず、思ったよりはかどらない。
昨日、あるところを訳しながら、あることを思いついた。そうだ! この料理を実際に作ってみればいいのだ。毎晩小説内の料理を作ることを目標に、1日の間に、次の料理の叙述があるところまで訳す。いい考えじゃないか。翻訳を楽しみ、料理を楽しむ。こんな贅沢な話はない。さっそく実行に移そう。
まず、舌平目のフィレ、シャンパン・ソース和え。
小ぶりの舌平目二匹を切り分け、パン粉をまぶして下ごしらえしてから、鍋にかける。シャンパンをボトル半分、マッシュルームを何個かに白種タマネギ、細切りのにんじん一本、ニンニク一かけ、コショウ少々、ナツメグ、エシャロット(小)、細かく刻んだ香草。
舌平目なんて久しぶりだな。近所のIY堂には売ってるだろうか? 捌いたことないけど、できるのかな? ナツメグなんてのも、そもそも売っているのか? 自分で料理に使ったことないぞ、などとワクワクしながら材料を書き出そうとした。が、舌平目だのナツメグだのの前に、そもそも躓いた。
「シャンパンをボトル半分」
リッツ・ホテルでの高級料理なのだった。シャンパンをボトル半分も使うなんて、できるはずないじゃないか! ぼくの一ヶ月ぶんの食費が飛んでしまう。
やれやれ。しかたがない。今日はくろ黒亭で豚シャブだ。えへへ。これはこれでうまい。
2010年9月3日金曜日
カンニング
これが戸塚スペイン語教室のサイトに載った先日の講演会についての記事。
今朝、ツイッターのぼくのホーム画面のTL(タイムリスト:ぼくがフォローしている人々のつぶやきが時間順に並んで出てくる。そこからぼくは場合によって有益な情報を得る)に松籟社がリンクを貼っていたのが、東浩紀がツイッター上でカンニングを告白した学生を摘発(?)したことに始まる一連のトピックを集めたサイト。トゥゲッターという、ツイッター上の同一話題を巡るツイートを一覧表示したものだ。
この話題が、夜にはYahooのトピックに記事としてあがっていた。
まあ、早稲田ほどのマンモス大学になれば、カンニングの違法性にもネットの公共性にも無頓着な愚か者のひとりやふたりはいる。この点に関して何も言いたいとは思わない。
ちなみにぼくは、大学教師としてはだいぶ甘い方だと思うのだが、カンニングにだけは厳しい。カンニングが発覚したら即刻退学にしてもいいとすら思っている。そこまでの厳しい罰則を敷く大学は、日本にはほとんどないと思うけど。少なくともぼくがこれまでかかわった大学にはなかったけれども。
自分の授業で試験をすることはほとんどなく、レポートなのだが、そうなるとカンニングに匹敵するものとして、コピー&ペーストに目を光らせることになる。なるべくそれが成り立たないような課題を出すようにはしているが、それでも疑わしいものがあれば、ネット検索をかけたり、関連書籍の一部をひもといたりして、採点に時間がかかってしょうがない。
外語に来てから、一度、あからさまなコピー&ペーストでごまかそうとした学生を落としたことがある。いや、一度ではないが、ともかく、そういうことがあって、後から発覚したのだが、その学生、あるネット上の授業評価のサイトに、ぼくの授業を、というかその授業の担当者たるぼくを「ゆるい」人だと評価していた。
担当者なりその授業や試験の形態なりが「ゆるい」と見なすや、タガを外す人物が確実にいるのだ。そんなものだ。その人の「ゆるい」との価値判断が正しいとは限らないのに。
ぼくら個々の人間がぼくらなりの独自性を主張するよすががどこかにあるとすれば、それは脳の働きをおいて他にはない。思考のうねりをおいて他にはない。(それですら、そのうねりを表現しようとするとき、ぼくらは紋切り型に囚われてしまいがちだというのに)その唯一のよすがをあっさりと捨て去るような行為は唾棄すべきだ。
今朝、ツイッターのぼくのホーム画面のTL(タイムリスト:ぼくがフォローしている人々のつぶやきが時間順に並んで出てくる。そこからぼくは場合によって有益な情報を得る)に松籟社がリンクを貼っていたのが、東浩紀がツイッター上でカンニングを告白した学生を摘発(?)したことに始まる一連のトピックを集めたサイト。トゥゲッターという、ツイッター上の同一話題を巡るツイートを一覧表示したものだ。
この話題が、夜にはYahooのトピックに記事としてあがっていた。
まあ、早稲田ほどのマンモス大学になれば、カンニングの違法性にもネットの公共性にも無頓着な愚か者のひとりやふたりはいる。この点に関して何も言いたいとは思わない。
ちなみにぼくは、大学教師としてはだいぶ甘い方だと思うのだが、カンニングにだけは厳しい。カンニングが発覚したら即刻退学にしてもいいとすら思っている。そこまでの厳しい罰則を敷く大学は、日本にはほとんどないと思うけど。少なくともぼくがこれまでかかわった大学にはなかったけれども。
自分の授業で試験をすることはほとんどなく、レポートなのだが、そうなるとカンニングに匹敵するものとして、コピー&ペーストに目を光らせることになる。なるべくそれが成り立たないような課題を出すようにはしているが、それでも疑わしいものがあれば、ネット検索をかけたり、関連書籍の一部をひもといたりして、採点に時間がかかってしょうがない。
外語に来てから、一度、あからさまなコピー&ペーストでごまかそうとした学生を落としたことがある。いや、一度ではないが、ともかく、そういうことがあって、後から発覚したのだが、その学生、あるネット上の授業評価のサイトに、ぼくの授業を、というかその授業の担当者たるぼくを「ゆるい」人だと評価していた。
担当者なりその授業や試験の形態なりが「ゆるい」と見なすや、タガを外す人物が確実にいるのだ。そんなものだ。その人の「ゆるい」との価値判断が正しいとは限らないのに。
ぼくら個々の人間がぼくらなりの独自性を主張するよすががどこかにあるとすれば、それは脳の働きをおいて他にはない。思考のうねりをおいて他にはない。(それですら、そのうねりを表現しようとするとき、ぼくらは紋切り型に囚われてしまいがちだというのに)その唯一のよすがをあっさりと捨て去るような行為は唾棄すべきだ。
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