2010年9月3日金曜日

カンニング

これが戸塚スペイン語教室のサイトに載った先日の講演会についての記事。

今朝、ツイッターのぼくのホーム画面のTL(タイムリスト:ぼくがフォローしている人々のつぶやきが時間順に並んで出てくる。そこからぼくは場合によって有益な情報を得る)に松籟社がリンクを貼っていたのが、東浩紀がツイッター上でカンニングを告白した学生を摘発(?)したことに始まる一連のトピックを集めたサイト。トゥゲッターという、ツイッター上の同一話題を巡るツイートを一覧表示したものだ。

この話題が、夜にはYahooのトピックに記事としてあがっていた。

まあ、早稲田ほどのマンモス大学になれば、カンニングの違法性にもネットの公共性にも無頓着な愚か者のひとりやふたりはいる。この点に関して何も言いたいとは思わない。

ちなみにぼくは、大学教師としてはだいぶ甘い方だと思うのだが、カンニングにだけは厳しい。カンニングが発覚したら即刻退学にしてもいいとすら思っている。そこまでの厳しい罰則を敷く大学は、日本にはほとんどないと思うけど。少なくともぼくがこれまでかかわった大学にはなかったけれども。

自分の授業で試験をすることはほとんどなく、レポートなのだが、そうなるとカンニングに匹敵するものとして、コピー&ペーストに目を光らせることになる。なるべくそれが成り立たないような課題を出すようにはしているが、それでも疑わしいものがあれば、ネット検索をかけたり、関連書籍の一部をひもといたりして、採点に時間がかかってしょうがない。

外語に来てから、一度、あからさまなコピー&ペーストでごまかそうとした学生を落としたことがある。いや、一度ではないが、ともかく、そういうことがあって、後から発覚したのだが、その学生、あるネット上の授業評価のサイトに、ぼくの授業を、というかその授業の担当者たるぼくを「ゆるい」人だと評価していた。

担当者なりその授業や試験の形態なりが「ゆるい」と見なすや、タガを外す人物が確実にいるのだ。そんなものだ。その人の「ゆるい」との価値判断が正しいとは限らないのに。

ぼくら個々の人間がぼくらなりの独自性を主張するよすががどこかにあるとすれば、それは脳の働きをおいて他にはない。思考のうねりをおいて他にはない。(それですら、そのうねりを表現しようとするとき、ぼくらは紋切り型に囚われてしまいがちだというのに)その唯一のよすがをあっさりと捨て去るような行為は唾棄すべきだ。