2022年1月6日木曜日

己の学歴を省みる


奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス、2021は、アクーニンやウリツカヤの翻訳者である奈倉有里さんが、モスクワのロシア国立ゴーリキー文学大学の翻訳科で学び、文学従事者の称号を得るまでの記録だ。


ここにアントーノフ先生という人物が出てくる。アレクセイ・アントーノフ。独り身で学生たちと同様、寮に住み、始終酔っ払っているが、授業では一転、キリッとする。他の先生たちと異なり、教科書の指定もせず、しかしどの教科書よりも鋭利な内容を独自の論としてよどみなく展開する。そんな先生だ。


言うまでもなく、大学の文学教師としての僕の憧れの存在だ(奈倉さんの本で初めて知った存在だけれども)。


この先生を紹介する章(「14 酔いどれ先生の文学研究入門」94-104ページ)にはその先生の授業の内容がかなり細かく書いてある。どの教科書にもないことだといいながら、奈倉さんはよくこれを再現できたな、……と思っていたら、その章は途中から異なる話が始まる。この先生の授業を聞き漏らすまいと、通訳のやる速記によるノートテイキングを試み、授業直後にそれを補足して授業での話を再現してみようとしたところ、かなり生き生きと先生の話をよみがえらせ、書き直すことができたというのだ! 


これはそのノートの取り方がいいのか、それとも奈倉さんの能力なのか? 誰かの話を事後的に脳内で再現したいという思いに取り憑かれたことのない(つまりそれを試みたことのない、そしてまたそのノートの取り方も実践したことのない)僕にはわからないのだ。きっと奈倉さんの能力なのだろうな。


彼女は創作科の友人の小説に登場させられ、小説のモデルの葛藤を生きたり、そうした創作科学生の小説のせいでそのアントーノフ先生と恋仲だと思われてしまったりと、……うーむ、小説のモデルになることに反発しつつ、それ自体が小説のようじゃないか。


僕も学生時代のことはたいがい、ノートに書きつけてはあるのだが、なかなかこんな面白い読み物にはならないな、と自身の情けない学生時代を省みるのだった。


ところで奈倉さんはそれまでドイツ語を学んでいた御母堂がある日スペイン語に執心し、それへの対抗意識のようにしてロシア語を学び始め、お母さんが家の様々な場所に貼りつけたスペイン語の単語に上書きして回ることによってロシア語を運命と定めたのだという(6-7、「上書き」とは書いていない。その横に書いたのかもしれない)。うむ。俺の「情けない学生時代」は、その上書きされてしまったスペイン語に埋没していたのだった……


机上のTV受像機にMaciPadを繋ぐとそこからBluetoothでステレオに音声を飛ばすことができないようなので、こんなスピーカーを買ってみた。迫力の映画鑑賞がこれで可能になるのだ。たぶん。