2022年1月21日金曜日

判子文化に嘆息を漏らす


えへへ。こんなのを買ったのだ。


もう何度も書いているとおり、一冊のノートにほとんどすべての記録を集約させている。さすがにデジタル器機をたくさん持つにいたり、日々のスケジュールはMacの〈カレンダー〉で、買い物メモは同〈メモ〉(iPhone で見るのだな)で済ませているし、(そしてこれは以前からのことだが)大きなテーマに関しては別のノートを作るには作る。が、ともかく、日記から読書の記録、備忘録まで、大抵は一冊のノートで済ませる。


日記ということは、業務日誌でもある。どの仕事をどこまで終わったとか、この仕事に関しては次に何をする予定だ、というようなことも書く。理系の人たちの実験ノートのようなものだ。


で、業務日誌であろうが日記であろうが、最近、少し変化をつけるために、書いた予定を遂行した後には、そこに赤字で○で囲んだ「済」の字を書くことにしていた。紙でのゲラが減り、以前ほど赤ペンを使わないからさびさせないためかもしれない。ともかく、そうしていた。


で、こんなものも判子があるのではなかろうかと思いついて探してみたら、案の定、あった。買ってみたのが、写真のブツ。


今日は神田外語大の本田誠二さんの最終講義だった。それが午前中の、いわゆる2限の時間帯(神田外語の時間割では3-4限と言ったかもしれない。確かではない)なものだから、対面でやっていたらきっと行けなかっただろうけれども、zoom での遠隔講義だったため拝聴できた。通常の「スペイン文学史」の授業の最終回としての講義(私立大学の最終講義にはこの形式が多いように思う)で、今日はカルデロン・デ・ラ・バルカの話だった。カルデロンの La vida es sueño (『人生は夢なり』と訳していた)を紹介してセルバンテスと対比(人生においても作品においても)。「生きることは夢見ること」とのテーゼを独自に考察、「真っ当なこと、常識的なことを言ったときに人は死ぬのだ」と。うむ。なるほど。


最後はごく最近のモイセス・マトの El sueño es vida という劇を紹介、これをひとり芝居で演じたティンボ・サンブ(セネガルからボートピープルとしてスペインに渡った俳優)に話が及んだ。