今日はどこぞの殿上人にまつわる行事で休みだそうで、僕は必ずしもそれを歓迎しているわけではないが、大学全体が休みなんだからしかたがない。便乗してやるか。
で、こんな、急に授業のなくなった授業日というのは、何かと心ばかりが浮ついて、結局終日何もせずに終わるということが少なくない。
結局無駄に過ごしてしまったという絶望を味わわないためには、映画を観に行くに限る。そしてそれを発信するのだ。少なくとも映画を観、それについてレビューを書いたという記録は残る。
村上作品のデンマーク語訳を手がけるメッテ・ホルムが『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の2作品を翻訳する過程を追ったもの。村上がアンデルセン賞を受賞してデンマークを訪れるので、それに合わせるようにと頑張る姿を撮っている。
とりわけ悩んでいるのが『風の歌を聴け』冒頭の1行。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」。ある作家が「僕」に向かって言ったという科白。この「文章」という単語の広がりに翻訳者は頭を悩ますのだ。
で、結局、どういう訳語にしたかは映画の最後にわかる仕組みになっている。もちろん、デンマーク語に移したのだが、デンマーク語が理解できなくてもその訳語はわかるようになっている。ヨーロッパ語なんだから。
「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)の「かえるくん」……というか二足歩行するかえるが登場し、作品に厚みを与える。「厚み」とは二方向のそれだ。
冒頭近く、ホルムがインタヴュアーとの会話のなかで、村上作品の魅力のひとつは非日常的なもの(正確にこう言った……こう字幕に書いてあったかどうかは定かではない。僕ならば「不気味なもの」と言いたいところ)が現れることだと言っていた。まさにその「非日常的なもの」「不気味なもの」として常にそこに存在している。
そのかえるくんがぬったりとした声(誰の声だろう?)で「かえるくん、東京を救う」のかえるくんの科白を読むのだが、それがメッテが市井の人々と交わす言葉やメッテ自身の翻訳者としての仕事への評価にも理解されるという、アレゴリカルな構造を示すことも「厚み」のひとつのあり方だ。ジェイズ・バーを意識したのだろう、芦屋か神戸あたりのバーで、レコードをターンテーブルに載せようとする店のマスターらしき人物が、今の状態だと戦争まではわずかであるかもしれないという時代への危機意識を語れば、片桐にみみずくんとの戦いへの協力を依頼するかえるくんの科白がそれに意味づけをする。かえるくんのみみずくんとの戦いは東京を地震から救うためのものだったはずが、一気に時代がかって世界の戦争へと聞くものの意識が広がる。片桐の協力に感謝するかえるくんの科白が、「翻訳がなければ私たちは生きていけない」と語るメッテの言葉と意味の幅を広げる。
同業者としては、メッテがテクストに書きつける書き込みや、ピンボールというものをわかろうとして実際にプレーしたりピンボール・マシーンの各部位の名称をゲームセンターの人に訊ねたりしているシーンなどが印象的だ。上でほのめかしたバーも、いい味出している。
そうそう。翻訳者は同じ作者のものを続けて翻訳しているとその作家になった気になる、というポーランドの翻訳家の科白も、印象的だ。僕もセサル・アイラになった気にならないようにしなきゃね。
そうそう。翻訳者は同じ作者のものを続けて翻訳しているとその作家になった気になる、というポーランドの翻訳家の科白も、印象的だ。僕もセサル・アイラになった気にならないようにしなきゃね。
写真はクラウド・ファンディングで援助していたEl libro negro de los coloresの翻訳。今日届いた。メネナ・コティン文、ロサナ・ファリア絵、うのかずみ訳『くろは おうさま』(サウザンブックス、2019)。
黒がきれいだ。