ボルヘス「裏切り者と英雄のテーマ」を映画化したものだ。原作は、いわば思考実験のようなもので、どこでもいいが、レジスタンスが活発な地域、ただし、話をわかりやすくするためにアイルランドにしよう、として物語の概要を語るものだ。その「どこでもいい」を受け、ベルトルッチはムッソリーニ治下のイタリアを選んで語り直した。
あるレジスタンスの英雄が実は裏切り者でもあって、その裏切り者の制裁のために劇場殺人が行われた。それだけの話だが、劇場殺人を盛り上げるためにシェイクスピア的要素(『ジュリアス・シーザー』における読まれなかった手紙など)を盛り込んでスペクタクルができあがったし、その真相を数十年後に曾孫が明かす(映画では息子)という外枠を作ることによってより文学的にするというのがボルヘスの実験。それを受けてベルトルッチは、さらにその語り手(英雄=裏切り者の子アトス・マニャーニ〔ジュリオ・ブロージ〕)がよそから町にやってくるという物語要素を加えた(ボルヘスの原作では語り手の曾孫がはじめからそこに住んでいたのか、よそからやってきたのかはわからない)。しかも彼は父の愛人だったドライファ(アリダ・ヴァリ)の依頼で真相究明に乗り出す。
もちろん、ベルトルッチがボルヘスの挑戦に応えたのはそこだけではない。短篇小説を映画にするのだから、そこには映画的な工夫が盛り込んである。構図や人物の配置、個々の人物のキャラクター、原作にはない人物の造形などだ。僕が印象深く思い出したのは父の仲間だったガルバッチ(ピッポ・カンパニーニ)の登場。自転車で走るアトスに自動車で後ろから近づき、声をかけるこの人物が乗っていた車というのが、ルノー5(サンク)。正体を明かして後アトスは彼の招待を受けるのだが、自転車に乗ったまま自動車の屋根に捕まり、タンデム走行するシーンが、なんというか、いいのだな。そんなシーンにルノー5を使うところが、素晴らしいのだ。
ルノー5 は映画の中などで独特の味を出す、いわば一種の物語素と言っていいと思うのだが、スペイン語からの翻訳ものを読んでいると、「ルノー・ファイヴ」なんて訳されていたりして悲しい。「サンク」でないなら、せめて数字の5にしておけなどと悪態をつきながら読むことになる。この小型車が映像に現れたときに、それだけで醸し出す雰囲気ときたら、曰く言いがたい愛着を感じる。自転車とのタンデムにこれ以上ぴったりくる自動車はあるまい。
こうした小物については、ボルヘスは特に何も書いていないんだな。そういえば彼は自動車を車種指定したことがあっただろうか? なかったように思うのだが? ボルヘス原作の映画を見て、自動車の効用について思いを巡らすようになるのだから、これはもちろん、映画作者のポイント。