といっても、明らかに噓をついている人物たちへの言葉ではない(その人たちに対しては、嘘をつくならもっと真面目に、ちゃんとした嘘をつきなさいと言いたい。嘘をつく度量がないのなら、個人としての誇りと人間としての最低限の尊厳を持ちなさい、と)。もう6月になったなんて信じられない、と言っているだけだ。
既に閉鎖したものも含め、ブログを始めて17年ばかりになるが、ひと月に記事がひとつだけだった月は先月がはじめてだ。
もちろん、何も書かなかったからといって何もしていないわけではない。
5月17日(木)には来日したホルヘ・フランコのレセプションに呼ばれ、コロンビア大使館に行ってきた。21日(月)にはそのフランコの講演会を聴きにセルバンテス文化センターへ。田村さと子を聞き手とする講演会は盛況であった。都市を舞台とする小説を書く自分たちの立場を丁寧に説明し、明解であった。
25日(金)には星野智幸の講演会を拝聴しに駒澤大学へ。法律の、説明の言葉と文学の言葉を区別し、法律の言葉が権力によって改竄され、言葉が奪われていくことに警鐘をならした。法が機能しなくなると文学も機能しなくなるのだ、と。
あるところに神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』(白水社、2018)の書評を書いた。表題作は今年の岸田國士戯曲賞受賞作。戯曲らしくない形式で書かれた三本の戯曲とエッセイとからなる1冊。エッセイは主に表題作のキャスティングのため(だと思う)にブエノスアイレスに滞在したり、そこで集めた俳優たちと京都でリハーサルしたりしているときのもの。
ブエノスアイレスの街の描写は、こんな風にメモを取りながら読んだのだ。
……書評の原稿には戯曲のことのみを書き、このメモは活かされなかったのだが。
ともかく。神里は日系ペルー人と日系日本人の間に生まれた人物で、少しのスペイン語をしゃべり、戯曲にもルーツに関係する場所やトピックが散見される。僕はこれまで彼の劇作品をそれとして観たことがなかったのだが、不覚であった。