2018年1月9日火曜日

ある邂逅について

土曜日には立教大学のラテンアメリカ講座でフアン・ガブリエル・バスケス『密告者』服部綾乃、石川隆介訳(作品社、2017)を読んでいる。先日読んだところにガイタンの暗殺の話が出てきた。

コロンビア自由主義陣営のスターで、ゆくゆくは大統領になると目されていたホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺されたのは1948年4月9日午後1時。これを機に暴動が起き、ボゴタには混乱が生じた。ボゴタ騒動あるいはボゴタソと呼ばれるものだ。バスケスの2015年の作品La forma de las ruinas は、このボゴタ騒動を扱っている。

残念ながら(恥ずかしながら)この最新作を僕は読むに至っていないので、代わりに、ガルシア=マルケスの自伝『生きて語り伝える』のボゴタ騒動についての記述をコピーして配布、比較した。

近くの「グラナダ薬局」Droguería Granadaというところに匿われていた犯人が、大群衆に引き出され、引きずられて大統領官邸前広場まで行った、とバスケスの小説には書いてある。そして語り手はそのときの写真を見たことがあると言う。

引っ張られていく犯人の遺体と、遺体のうしろに点々と打ち捨てられている犯人の衣服。俺はそれを見るたびに必ずと言っていいほど、蛇の脱皮のシーンを思い出してしまう。写真はピントが微妙にずれていて、犯人フアン・ロア・シエラの遺体も、単なる白っぽい塊、それもほとんどエクトプラズムのようなぼんやりした塊にしか見えない。ただし、エクトプラズムと違うのは、塊の真ん中あたりに黒っぽい染みのようなものがついていること。その染みのようなものとはもちろん、犯人の性器である。(381)

犯人を引きずるこのシーンをガルシア=マルケスは目の当たりにしたらしい。『生きて、語り伝える』ではその情景を克明に描いている。犯人が匿われた店の名は「ヌエバ・グラナダ薬局」Farmacia Nueva Granadaになっているが、このくらいの差は、一方がフィクションなのだから、特に気にならない。だが、ガルシア=マルケスは、この犯人の身体にはパンツと片方の靴、それにネクタイが残っていたと記しているのだ。そしてこのほとんど裸なのにネクタイだけが残っているという記述は、何らかの文学的効果をもたらしているような気がしてならない。自伝であると素直には語りたくなくなる瞬間である。

ところで、フィデル・カストロもこの日、ボゴタの犯行現場近くにいた。午後2時にはガイタンはフィデルと会う約束をしていたのだ。

フィデルは、しかし、この犯人が引きずられているシーンは目撃していないようである。少なくとも、本人の回想の中ではこのシーンは語られない。ガボとフィデルは近くにいながら、巡り会ってはいないようである。

ところで、ガルシア=マルケスはこの騒動の最中、弟と一緒に質屋に走り、タイプライターが無事かどうか確かめた。質屋は無事だったが、タイプはなくなっていた。

同じころ、フィデルはタイプライターを目にすることになる。

細かく覚えていることがあります。最初のころのことですが、小公園に着くと、どこからか奪ってきたらしいタイプライターを壊そうとしている一人の男の姿を認めました。タイプライターを壊していたのですが、怒り狂ったその男は、手でそのタイプを壊そうとして、おそろしく苦労していました。それで私は声をかけたのです。「きみ、貸してみなさい」と。私は彼の手助けをして、タイプを受け取ると高く投げ上げ、地面に落としました。その男の絶望した様子を見ている、ほかに考えが浮かばなかったのです。(『少年フィデル』177-178)

フィデルが壊したタイプこそが、ガボか安否を確かめ、失ったことを知ったタイプだ。

……と思う。そんな話を後年、二人がどこかでしていたように思ったのだが、今回、授業の前に探してみても見つからなかった。

したがって、というか、それ以前に、これら2つのタイプライターが同一のものなのかどうか、実際にはわからない。でも僕は、これは同一に違いないと思っている。そうであって欲しいと願っている。


フィデルとガボ。年の近い、仲のよかったこのふたりは、かくして、ごく若い頃、邂逅を果たした(ようなものである)。