2017年11月3日金曜日

公共のものである私の頭

10月31日にはセルバンテス文化センターに行った。México en Sur 1931-1951( FCE ) という本を編んだGerardo Villadelángel によるこの本のプレゼンテーションがあったのだ。グレゴリー・サンブラーノとの対話の形式。それを逐次通訳した人物は「ハビエル・ビジャウルティアやオクタビオ・パスが雑誌『放蕩息子』に寄稿していた」ってな発話を、「(ビジャウルティアやパスを『スール』に招いた)ホセ・ビアンコは『スール』では放蕩息子みたいな存在だったから」と訳した。(他にもいくつか誤訳があったが、忘れた)きっと詩人たちのことやメキシコの文学シーンをよく知らない人なのだろう。背景を分かっていないのだ(「放蕩息子」という日本語の意味も)。プロの通訳ならそのへんのことも調べた上で臨むものなのだが、まあ仕方がない。

誰かの発話を理解するには内容のみならずその人の背景や意図を理解することが必要で、そうした背景や意図を分からないと誤解したり(訳する場合には)誤訳したりする。それは本と同じだ。

橋爪大三郎『正しい本の読み方』(講談社現代新書、2017)はこうした読書論につきものの、著者の実践編というべき箇所が面白い。特にマルクスとレヴィ=ストロースをその「構造」と「意図」、「背景」から主張内容を簡潔に教えてくれる。唸らせる。で、ついでにフーコー『知の考古学』の誤訳がそこにある数学的構造を理解していないことに由来することを指摘している。さすがのキレだ。

でも読書論として画期的なポイントは、マーカーは黄色と青を使う、「白黒コピーを取ったときに、色が出ないのは、黄色と青だけだから」とか、「傍線は、手で引いてると、時間がかかるんです。だから、定規で引く」。「いわゆるカードは作りません。一切」という実践的アドヴァイスだ。特に2つ目には虚を突かれ、3つ目には解放された。

そして居住まいを正されるまとめの言葉:「学者とは、自分の頭を、公共のために使うと決めて、修練を積んでいる、プロの本の書き手です」。


はい。頑張って書きます。本。