2017年4月28日金曜日

ちょっと説明

先週の日曜日(4月23日)、第3回日本翻訳大賞の授賞式を見に行った翌月曜日、火曜日の授業の準備に

アレホ・カルペンティエール『方法異説』寺尾隆吉訳(水声社、2016)

を読んでいた。ん? と思う箇所がいくつかあったので原文と対照した。

夜だったし、腹を立てて次のようにツイートした。


まあこんな短い文だけで批判したのでは、また言いがかりをつけられそうなので、少し説明しよう。

なるべく主観は入れないつもりだ。この人物への主観的判断を綴れば3冊ぐらい本が書けそうだからだ。

写真に撮ったこのページで説明しよう。
これはひとつの例だ。たぶん最悪の例ではあろうが、ここまでではないにしても複数の疑問が生じる(誤訳がある)ページが一章だけで7-8ページあった。


まず、3行目から。

(我々は)溢れ出る雄弁やパトス、ロマン主義的虚勢を響かせた豪華絢爛な演説に心を奪われがちだ……私の弁論術(略)を直接揶揄したような彼の言葉に少々気分を害した――彼は気づくまい――私は、(略)

なぜ「我々」が派手な演説に「心を奪われ」る(強く惹きつけられる)ことが「私の弁論術」への揶揄になるのだろう? 原文はこうだ。

(...) somos harto aficionados a la elocuencia desbordada, al pathos, la pompa tribunalicia con resonancia de fanfarria romántica.... Ligeramente molesto--él no puede darse cuenta de ello-- por una apreciación que hiere directamente mi concepto de lo que debe ser la oratoria(...).
(我々は)溢れ出る雄弁術が、パトスが、ロマン主義のファンファーレのような響きのある絢爛豪華な演説がいやになるほど好きだ……彼はそんなことに気づくまいが、演説とはこうでなければという私の考えを直接傷つけるような価値判断だったので少しばかり鬱陶しく思い(略)
(できるだけ既訳に使われた言葉を使ってみた)

こんなやりとりがあって「私」こと大統領(「第一執政官」)はこの「著名学者」に反論するのだ。ルナンのある本を巡る評価だ。

「おぞましい!」有罪でも宣告するように著名学者は叫ぶ。この断章がフランス語学習者向けの文学マニュアルによく収録されていることを私が指摘すると、「世俗教育の忌まわしい帰結だ」と彼は断罪し(略)

? 「フランス語学習者向けの文学マニュアル」? どういう反論だ?

原文は

"Quelle horreur!", exclama el Ilustre Académico con gesto condenatorio. Le hago observar que ese trozo figura en muchos manuales de literatura destinados a los estudiantes franceses. "Abominación debida a la escuela laica", afirma el visitante,(...).
"Quelle horreur!·"(恐ろしい!)と〈高名なるアカデミー会員〉は叫び、地獄に落ちろという仕草をする。私は彼に、この断片がフランス人学生向けの多くの文学の教科書にも出てくるのだと教えてあげる。「世俗教育のせいでこんな忌々しいことに」と客は断言する。(略)

「フランス語学習者」ではない「フランス人学生」だ。つまり、ラテンアメリカでは正しくフランス文学が評価されていないと嘆いた「著名学者」(〈高名なるアカデミー会員〉)に対し、あなたがだめだと言っているフランス文学はフランスでも評価されているんですよ、と反論しているのだ。この反論の面白みが、上の訳ではわからない。

(ところで、フランス語学習者estudiantes de francésとフランス人学生estudiantes franceses の違いなどとても初歩的なことだが、他の翻訳にも共通する寺尾訳の特質は、こういう初歩的な間違いをよく犯すということだ。この2ページ先では「明晰ならざるものはフランスにあらず」というリヴァロールのあまりにも有名な文言 "Ce qui n'est pas clair n'est pas francais" を「明解さを欠くはフランスならず」と訳している!)

さて、今の引用に現れているように、カルペンティエールのテクストは多言語的なのだが、寺尾訳は発話がフランス語であることを明示せずにスペイン語の文章と同じように平坦に訳している。これはひとつの見識で、翻訳のひとつの方針ではあろうが、少なくともカルペンティエールらしさは減じるし、僕は好きになれない。

バロックの美学を前面に押し出したカルペンティエールのバロック的技法のひとつ、一般名詞の固有名詞化(大文字化)(Ilustre Académicoのことだ。僕が「〈高名なるアカデミー会員〉」と訳し寺尾が「著名学者」と訳したものだ)も平坦になっている。

さらに進もう。上の引用の直後、「著名学者」がルナンの文章prosaを称して:

「意味不明」――派手に呼びかけるばかりで、蘊蓄や女衒に頼り過ぎる(略)

女衒!? 何のことだ? なぜ娼婦の手配師がルナンの文章に関係するのだ? せめて衒学なら話はわかるが……原文は:

amphigourique --pretenciosa, vocativa, hinchada de erudición y pedantes helenismos.
amphigourique(支離滅裂)――気取った、呼びかけの調子で、蘊蓄と衒学的な古典ギリシヤ趣味でパンパンになった(散文)。
それから、以下はどうだろう?
だめだ。アメリカ大陸の人々が読むべきフランス文学は、まったく違う本、違う作品だ。そんなことでは、モーリス・バレスの『法の敵』が、わずか三ページの明解な散文でいかに見事に格調高い文体と秀でた知性を展開して――イエス崇拝を中心に――マルクス主義の誤謬を暴いているか、(略)決してわかりはすまい。

全体の論理は背理的なので間違いとは言わないが、原文は:

No. Las gentes de nuestros países deberían buscar el genio de la lengua francesa en otros libros, en otros textos. Descubrirían, entonces, la elegancia de estilo, la prestancia, la soberana inteligencia con que el Maurice Barrés de L'ennemi des lois podía mostrarnos, en tres páginas claras, las falacias y errores del marxismo --centrado en el Culto del Vientre--, (...).
そうではないのだ。我々(アメリカ)諸国の人々はもっと違う本、違うテクストにフランス語のエスプリを求めなければならないのだ。そうすれば『諸法の敵』のモーリス・バレスの上品な文体、気品、最上の知性を発見できるのだ。彼はそうした手並みでもって、明晰に書かれた3ページにおいて、〈腹への信仰〉に偏ったマルクス主義の虚偽と誤謬を我々に証明して見せている。

僕は今のところ、vientre(腹)が「イエス」を表しているかもと考えるにたる論拠を見出し切れていない。「人はパンのみにて生きるにあらず」は有名な聖書のことばで、これを裏返したような、「人はパンのみで生きる」と言わんばかりの唯物論がマルクス主義だと見なされているのだから、〈腹への信仰〉とはそうした考えのことではないだろうか? 

以上は、わずか10行以内に出会った首を傾げたくなる訳の数々だ。その他に、こういうことも書いた。




この直後に展開される『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」についての評価にある「半音階の進行」progresión cromáticaが訳されていなかったりして、音楽評論家カルペンティエールの書く小説にしてはなんだか音楽の蘊蓄がちぐはぐだ(第2章では「ホルンを逆さにして唾を抜く」であるはずのものが「楽器を半回転させて」と楽器名を無視したり……)。ワグナーを愛しかつカルペンティエールを愛する人がこれを読むかも、と考えて怖くならないのだろうか?

ふう。疲れた。 

あ、もちろん、寺尾訳でもストーリーが原作と異なるというほどの大きな間違いはないと思うし、なかなか工夫を凝らしてよくやっていると思える箇所だってある。でもこうした細部がいちいち首を傾げたくなるのが彼の訳の特徴。訳だけでなく「手本」の意味の「かがみ(鑑)」を「鏡」と書いたり(『別荘』に二度あった。『方法異説』でも少なくとも一度みつけた)、「最期の瞬間」と書いたり(同語反復だ)、万能で無意味の接続辞「なか」を多用したりと、日本語だって怪しい。ふたつ3つに言い換えられた男根を意味する隠語をどれもただ「性器」とだけ訳したり(味気ない。カマトトだ。これは『別荘』での話)。そんなだから、面白みが削がれるのだ。読むためのドライヴが減じる。原作はもっと面白いのに。