2016年10月23日日曜日

知的生活の方法? 

ところで、富山に行った際、話題の富山市立図書館にも行ってきたのだ。隈研吾の手になる、木を多用した館内は今から国立競技場を見るようであった。ただし、吹き抜けのある作りは、僕のような高所恐怖症の人間にはいささか怖い。

さて、地方に出かける必要のない久しぶり週末、当然、仕事をしているのだ。

2-4冊、本を書く約束をしている。「約束」をどこまでの範囲にとるかによって、冊数が変わる。2-3冊、翻訳を約束して、その「約束」の意味を取り違えてまったく話を無駄にしたことのある(1冊分の翻訳原稿を作ったのに、いまだに宙に浮いている)僕としては、常に「約束」の範囲は怖いものなのだ。でもまあ、とりあえず、2-4冊だ。

それらをそろそろ仕上げにかからねば、と思うのだが……いつまで経っても終わらない。

書いてはいるのだ。でも僕はまだまだ「一気呵成に書き上げる」神話にとらわれているのだろうな。

僕が準備している本だから、当然、それは多くの本に依拠している。そうした文章が書き進められないということは、

1)書く時間をつくらない
2)書くための準備(読書)をしていない
3)読んだことは読んだし、書く時間も作れるのだが、読むことと書くことの橋渡しを面倒くさくてやっていない

のどれかの理由によるものなのだ。そしておそらく僕は圧倒的に2)か3)の理由によって書き進まない。

3)つまり読むことと書くことの橋渡しとはこういうことだ。僕らはだいたい、次のような手順を踏んで文章を仕上げる。

i) 本を読む。
ii) メモを取る。カードとかノートとかいうやつ。
iii) メモを基にある単位の文章(大抵は1段落)をつくる。
iv) そうしてできた段落などを組み合わせ、全体の流れを考えたり修正したりしつつそれに組み入れ、もっと大きな単位(節、章、など)を作っていく。
v) めどが立ったところでその節なり章なりを冷静に書き直してみる。
……
後はひたすら、推敲。何度も推敲。

このii)とiii)の手続きが「橋渡し」。実はこれが面倒なのだ。この段階を飛ばして文章を書けちゃう人もいる。あるいは同じ人でも書けちゃう文章と書けない文章がある。書けないとき、この手続きを踏むのが実に難儀になってくる。ii)とiii)の段階ではまだ文章(章や1冊の本全編)が見えないものだから、焦るのだ。焦ると放棄したくなるのだ。

そこで、i)から一気にiv)ないしv)に進もうとする。すると、そこに問題が生じる。何かを読んで、それを紹介したり、別の文脈に組み込むべく説明する文章を書いたりするということは、実に労力を要する作業なのだ。ある章のある箇所にある本のあの一節を引用するといいとわかってはいても、それがとても難しい。

問題のふたつめは、ある本を自分の文章に組み込もうとすると、その文章を書いている間、その本を持ち歩かなければならなくなるということ。すると荷物が膨大になる。文章を書くのは、出先でも喫茶店でも、どんなところでもできる。僕の場合はむしろ、外出先の方が文章がはかどるくらいだ。ところが、そこに引用を紛れ込ませようとすると、その本が必要になる。できるだけ身軽にして歩きたいと思っている僕としては、現在執筆中の原稿にかかわる本をすべて持ち歩くなど、難しい話だ。

そんなわけで、本当はi)からiii)までの、いや、せめてii)までの作業を早く終えた方がいいのだ。iii)での作業を経て段落単位の文章をたくさんフォルダに入れておけば、文章を書く作業も楽になる。ところがii)やiii)の作業は執筆中の本の流れからすればわずかな進捗しか意味しない。だから焦りを産み、焦りは怠惰を導く。

今日もオスカー・ルイスの文章をある文章に組み込もうとして手が止まり、はて、どうしたものか、よくわからないのだから、とりあえず使えそうな文章を全部ファイルに書き写して眺められるようにすればいいのだ、との結論に達したのだが、さて、それもめんどうだ、うーむ……としばし唸った次第。で、それを実行に移さずに、この文章を書いたりしている。逃避。


いやいや。今頃卒論や修論で悩んでいるだろう学生たちを鼓舞するつもりでこれを書いているのだ、ということにしておこう。さあ君、諦めてオスカー・ルイスの文章を書き写すことから始めたまえ。それが君の文章にどう活かされるかわからないからといって焦ることはない。最低でも1行分くらいにはなるはずだ……