島尾ミホの、こんな文章には心打たれる。
南の島とはいっても年によっては、旧暦の霜月師走にもなると、沖の方では珊瑚礁に砕ける白波を北風がたかく吹きあげ、潮気をふくんだ冷たい風が島をすっぽり包み、山の木々は末枯れた姿になって、庭のパパイヤの木も葉をすっかり落とし、寒さにこごえた実は熟するのを待たずに、ひとつひとつ落ちて落葉の上で霰に打たれている日もあります。そして夜になると梟の淋しい啼き声といっしょに夜寒が襟もとから胸の辺りにしのびこみ、足の爪先や踵は、月の光を受けて小川の底に沈む小石の肌のように冷えてちぢかむのです。(『海辺の生と死』中公文庫、103ページ)
島尾ミホは島尾敏雄の妻だったから本を出したのではない。この描写力(と記憶力)とによってひとりの優れた作家だったのだ。亜熱帯の南の島の冬の寒さを知る者で、エッセイ「旅の人たち――支那手妻の曲芸者」の書き出しのこの段落に自身の幼少期を思い出さない者はいないと思う。「南東の亜熱帯性気候は四季の移り変わりもそれほどはっきりと区別がつきません。水稲も二期作で、正月に菫の花や朝顔の花が咲いたりします」(173 - 174ページ)との一文に描かれた現実と決して矛盾するわけではない島の冬だ。
とはいえ、1919年生まれの島尾ミホと1963年生まれの僕とでは生活のあり方はだいぶ異なっていたようだ。「支那手妻の曲芸者」は『海辺の生と死』第II部「旅の人たち」の2番目のエッセイだが、1番目の「沖縄芝居の役者衆」には、以下の説明がある。
その頃奄美大島の港には、間遠に日本本土から蒸気船がやって来て、そちらからの客や積荷をおろし、こちらからは黒砂糖の樽や大島紬などを積み込んでは帰って行きましたが、その大島から海峡ひとつ隔てた私の故郷の加計呂麻島では、遠い処へ行くのにも丸木を刳り貫いた丸木舟か、板を接ぎ合わせて造った小さな板つけ船しかなく、それわ櫂で前搔きに漕いで行き来をしていました。それなのにそんな不自由な海の旅を重ねながらも、いろいろな旅人たちが、この南の島蔭の、入江奥の集落までも渡って来ては去って行くのでした。(89-90)
まず驚くべきは、「遠い処へいくのにも」だ。「も」。つまり、近いところ(例えば対岸の大島にある古仁屋の町)に行くには当然のごとく、船が小さな船が使われていた。多くの人の思い込みに反し、奄美大島は大きい。歩いて回れる島などではない。加計呂麻島と僕が育った島の北端では様子も異なる。僕らのところでは今ではもう残っていないけれども、古仁屋―加計呂麻島近辺ではいまだに小舟(といっても手漕ぎではなくモーターつきだが)による水上タクシーなどが行き交っている。1931年生まれの母から聞いたところでは、彼女の子供時代(終戦後間もなく、奄美が本土に復帰するころまで)、名瀬の街に行くのに船で行っていたとのこと。島にバスが走るのが1952年、復帰の前年だから、それまでは回路はひとつの日常的な移動手段だった。
もうひとつ驚くべきことは、そうした難儀をしながらも、「沖縄芝居」やら「支那手妻」、「曲芸師」、さらには「富山の薬売り」など、旅の人々が回ってきたということだ。僕が知っているのは富山の薬売りだけだ。でなければその他の行商人。少なくとも旅芸人たちは、1970年前後の島には、もう渡ってこなかった。映画興行ならばあった。風に揺れる映画もあるのだ。椎名誠(44年生まれ)の記憶だ。
『海辺の生と死』では島尾敏雄の特攻隊長だった時代のことを綴ったエッセイもある。第II部、「特攻隊長のころ」、「篚底の手紙」「その夜」の三編だ。これを島尾の小説の数々と比較して読んでみるのは一興。今度どこかでやってみよう。