先刻予告のとおり、昨日、下北沢B&Bで豊崎由美さんとのトーク「わからないのに面白い? セサル・アイラの楽しみ方」に行ってきた。
豊崎さんがアイラの邦訳作品を説明し、解釈しながら僕に質問する形式で話を進めた。保坂和志を引用して、わからないことを受け入れることによる対象とのつき合いを語る豊崎さんに会場中が唸った。少なくとも僕は唸った。
ところで、アイラの文体について訊ねられた時、ある程度の簡潔さを犠牲にしてどうにかリーダブルな訳にしているのだと答えた。何か例示をと思ったけれども、その場ではできなかった。良い例があったのに。それが悔やまれてならない。なので、そのことを補足。
『文学会議』表題作第二部冒頭で( )に入った一文がある。現在の日本語訳では「詩文が霧となって立ちこめ、ものが見えなくなったりすると、私はぎょっとしてしまう」(23)となっている。この文章はアイラの文体と僕の訳文との齟齬を説明するのに格好の例ではないだろうか。
当初、この文の訳はもともと、「詩的曇りなどがあれば、私はぎょっとしてしまう」というものだった。原文は "me espantan las neblinas poéticas"。"neblina" は霧nieblaとはいささかニュアンスが異なるので、まあ「詩的曇り」でよかろうと思ってのこと。簡潔でもある。
校正時、ここに校閲係か編集者からのコメントが入っていた。わかりづらいというのだ。
僕は、これくらいの表現はまだわかると思ったので、このコメントは無視するつもりでいた。けれども、最後の最後になってやはり手を入れようと思った。 "neblina" の定義は、例えばVOXの辞書では "Niebla poco espesa que reduce la visibilidad entre uno y dos kilómetros" (それほど濃くない霧で、1、2キロの視野の見えやすさを減じさせるもの)"Acumulación de humos o gases que enturbia la atmósfera" (雲またはガスの堆積で、周囲の空気を濁らせるもの)となっているからだ。
で、考えた結果、校正のゲラを返す直前になって、最後の最後に現在の訳文にしたという次第。
この文章が分岐点だ。これよりわかりやすい言い回しは原文の簡潔さを犠牲にすることなく訳した。これよりも難しいと感じるものは編集や校閲の指摘を待たず、自分で色々と言い換えてわかりやすくした。
僕は「文学会議」の「私」こと〈マッド・サイエンティスト〉と同様、自分の知性に溺れることなく、次の世代に引き渡せばいいのだと思っている。慎ましい自己認識を持っている。アイラの文体のリズムを保持しつつ、こうしたニュアンスを同じリズムで表現できる翻訳者がいれば、優れた新訳を出して欲しいと思うのだ。
ちなみに、昨日、新しい翻訳フアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社)が出来して、会場のB&Bで先行販売となった。→に書影を掲げた。この小説がまたまたすばらしいのだ。