旧聞に属するが、毎日新聞ウェブのこの記事(クリック)を引用し、僕は、フェイスブックにこう書いた。「このニュースで画期的なことは、もちろん、錦織が勝ったことではない。ガルシア=ロペスの名が「ギリェルモ」と表記されていることだ。僕はそう思う。」
ここでも何度も触れている -ll- 問題だ。リャかジャかヤか、という問題。
……いや、そうではなくて、今回はラではなくリャと書かれているね、という話だ。よくぞ「ギレルモ」と書かず、「ギリェルモ」と書いた、ということ。
ギジェルモ・デル・トロが「ギレルモ・デル・トロ」になる問題。これを翻訳文化リテラシーの問題と呼んでもいいのじゃないかと思った。
今日、以下の連続ツイートをした。
「もう一度言おう。Juanはフアンだ。ファンではない。扇風機じゃあるまいし。フワンやホアンが併存していた時代が懐かしい。はじめてフアンの翻訳を出したので、不安で仕方がない。「あとがき」にはすっかりこの人の「ファンになった」と書いた。ともかくフアンだ。フアン・ガブリエル・バスケス。」「これはところで、ウエルベックかウェルベックかの問題に似ている。-ue-や-ua-の二重母音問題。でも先行する(あるいは存在しない)子音が異なると、だいぶ違う主張をしてしまう。」「つまり[we]の音を出すにはウェで良いでしょう、というのに対し、[xwa]の音を出すのにファでは困るよね、という主張。fanやvanと間違えちゃう。あ、でもそれは日本語の表記の問題でもあるのか。-f-の音が存在せず、-h-で発音しちゃう人にとってはファでもいいのか?」「実際、「バスケスのファン」を「バスケスのフアン」という人、いるものな。フィルムをフイルムと言う人。」「考察を進めた結果、発音の観点から「ファンではない、フアンだ」と息巻くのはやめることにしました。そう書く習慣なのだから、そう書いてくれ、と言うのが一番かな?……」
そんなわけで、「そう書く習慣」であるということを知っているか知らないかを「翻訳文化リテラシー」の有無、あるいは度合いの問題として考えるのがいいのでは、と思い至ったのだ。
例えば、フランス語の前置詞 de を「ド」と書く人と「ドゥ」と書く人がいる。「デ」と書く人は論外。もちろん、de の母音 e は無音というかシュワーというか、ともかく、無音なので「ド(do)」でも「ドゥ(du)」でもない。が、ある一時期、de は「ド」の表記が優勢を占めたのであり、たとえフランス語を知らなくても、フランス語からの翻訳文物に触れていれば、これを「ド」と表記するようになるものなのだ。「ド」を「ドゥ」に改めるには、「ド」表記の伝統を知らないか、知っていても、それに反論し「ドゥ」の方がいいと主張するだけの論理がなければならないはずだ。伝統を知らずに「ドゥ」と思ったからそう書いた、という人を、翻訳文化リテラシーのない人と見なすのがいいのではないか。
さて、困るのはこういう人だ。「ド」の伝統を知らずに「ドゥ」が良いと思い込む人。
もちろん、外国語を習得するのに翻訳文化に親しむ必要はない。翻訳文化にあらかじめ親しんでいれば言語習得には有利に働くかもしれない。しかし、いったん言語習得のプロセスに入ると、必要不可欠な条件ではなくなる。ただ、翻訳文化に親しまないと、少し時間と労力は必要かもしれないが、ともかく、条件ではない。
さて、そんな翻訳文化リテラシーはないのだが外国語は身につけました、という人が、「de が『ド』だって、何言ってんだか、deはまああえて言えば『ドゥ』の方が良くない?」なんて言ったりしながら書いちゃったんだろうな、というような表記や文章を時々見かけると、げんなりするのだった。
それはともかく、当該の外国語を習得していなくても、色々な外国文化の翻訳文化リテラシーがあれば、ドイツ人の名前にあるvanが「ファン」でスペイン人の名前Juanは「フアン」だよね。昔は「フワン」とか「ホアン」って表記も併存してたよね、とわかってくれるのだと思う。
さて、『毎日新聞』のスポーツ記者はそういうスペイン語圏からの翻訳文化へのリテラシーの高い人だっのだろう。あるいは彼が参照し、訊ねた人物がそうだったのだろう。なまじ翻訳文化リテラシーのない人なら「いやいやギジェルモのが近くね?」とか「ギエルモっしょ」などと答えたのかもな。いずれでもあり、いずれでもないのに。
そうそう「ガルシア=ロペス」ではなく「ガルシアロペス」になっているのは、スペイン語圏の人物の二つの苗字は「=」(二重ハイフンだ。イコールではない)でつなぐという習慣(これも一時期優勢をしめた)を知らない、つまり翻訳文化リテラシーがないからではなく、単に、近年の新聞は姓が二つある場合は「=」も「・」(ナカグロ)もつけずに続けて書くというのが習慣だからだ。僕もその程度には新聞文化リテラシーがある。へへへ。