2014年10月30日木曜日

まとめて事後報告(4)

色々なことに追い立てられ、ほとんどブログのことを忘れたまま放置してしまった。ぼくを追い立てていたのは書類仕事やら原稿やらだったわけだが、その間、いくつかイベントに参加した。

14日(火)には『スガラムルディの魔女』公開記念イベントでアレックス・デ・ラ・イグレシアと妻のカロリーナ・バング(今回の映画に出演している)のトークショウに出かけた。「祖母は本物の狂人だったけど、病院には入れずに自宅で一緒に暮らしていた。あるとき市長が家に来ていたんだけど、祖母は裸で私を殺すな、と叫んでばかりいるものだから、抑えつけるのに苦労した。そうしたことも後から振り返ればなんだかおかしい」というような話をしていた。

もちろん、準備として見て行ったさ、今回同時上映の『刺さった男』(2012)。

失業した広告マンのロベルト(ホセ・モタ)が遺跡発掘現場で高所から落ち、頭に鉄骨が刺さってしまい、大騒ぎになる話。特異な立場にある自らを、この機に乗じて商品化しようと企む展開が、頭に刺さった鉄骨以上に痛いのだった。

25日(土)には沖縄の高校生たちをお招きして模擬授業と大学、および文学部、あるいは現代文芸論研究室の説明をした。沖縄のいくつかの高校の生徒たちが大挙して東大や一橋、外語大(文系コースの場合)などを訪れる、という、そんな企画。

が、何といっても最大のイベントは:Actualidad de Octavio Paz

パスの生誕百周年の年だ。メキシコから詩人のアルマンド・ゴンサーレス=トーレスとフリアン・ヘルベルトを招き、パスについて語っていただいた。28日(火)のこと。

色々と面白い指摘があったけれども、ヘルベルトの指摘したポイントは考えさせられる。パスは自分のよく知らない言語の翻訳にこそ力を入れていた、と言う話。いつもはしかつめらしい態度のパスが、インドでコルターサルや現地の人々と楽しそうに踊っている動画を流しつつ、そうした相矛盾する態度にポエジーを見出す発言だった。


しかし、よく通じていない言語をこそ翻訳する、という指摘は、翻訳論の文脈に置いても面白いかもしれない。たとえば古代ギリシヤのテクストをいくつか訳しているアルフォンソ・レイェスに関して、実はギリシヤ語はそれほどできなかった、という事実が「脱神話化」として語られた。それはつまり、よく知らない言語を訳しているという批判でありえたはずだ。が、よく知らない言語をこそ訳すところに詩的誠実さを見るというのは、そうした翻訳と外国語習得をめぐる神話を逆の側から脱神話化する視点ではないのか?