ある人からカルペンティエールについて本を書かないかと言われ、その気になっているわけだ。エドガー・ヴァレーズの未完に終わったオペラのための、ロベール・デスノスとともに書いた台本など、初期の作品の研究が展開している近年、そういった動向に今ひとつついていけていないぼくとしては、いい機会だからまとめておこうと思ったのだ。手始めは、まだ日本語ではちゃんと発表していないベネズエラ時代(1945-59)の話かな?
で、この際だから、きちんと考えておかなければならないことがある。アレホ・カルペンティエールの言語使用についてだ。
もう20年ほど前に出生証明が公になり、カルペンティエールはスイスのローザンヌ生まれでどうやら間違いないということになった。名前もアレホAlejoではなくアレクシスAlexis。これをして単に嘘つきと難じるのは詮無きことだ。小説家が嘘つきで何が悪い。
カルペンティエールを論じて常に興味深い論点を出しているイェール大学のロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアは、この出生の不確かさから出発して、カルペンティエール自身の説明する伝記的要素の他の謎をも挙げている(「カルペンティエールの国籍」)。
1) 1928年、ロベール・デスノスのパスポートを借りてパリに渡ったという話はにわかには信じられない。
2) 1943年にハイチに渡ったのはどういう経緯だったのか? ルイ・ジューヴェと一緒だったというが、彼はそのことについて何も発言していない。ましてや、最初のバティスタ政権下のキューバ政府の依頼でとは、どういうことだ?
3) そしてまた、そうなると、若き日の仲間であったグラウ・サンマルティンが大統領に選任された 1945年にベネズエラに渡ったのも謎だ……等々。
こうした謎をまとめると、カルペンティエールの国籍、ステイタスは極めて不確かな怪しいものだと言わざるを得ないが、そのことを考えに入れると、俄然重要性を増す作品が、(『失われた足跡』と並んで)「種への旅」、「亡命者庇護権」のふたつの短編と『ハープと影』だ。常にユダヤ人説が囁かれるジェノヴァ出身でスペイン名を名乗りたがったコロンブスを巡る小説であるがゆえにだ。
もうひとつ面白いのはゴンサーレス=エチェバリーア自身が知り合いから得た情報として紹介する、カルペンティエールの知り合いだったという女性の話だ。カルペンティエールの母親リナというのは、父親ジョルジュの愛人だったのだと、そしてジョルジュはある日、本妻の住むカラカスに去ってしまったのだ、と語ったというのだ。だから息子がカラカスに行ったのは、死んだ実父の財産を受け取りに行ったのだ、とも。
真偽のほどはわからないとしているのだから、ぼくもお遊びとして接続するのだが、同じカラカスで、ある人物がアンヘル・ラマに対してカルペンティエールの噂話を繰り返ししていたのだった。作家が『キューバの音楽』のための調査旅行中に、友人に妻を寝取られた、という噂話だ。友人にピストルで脅され、妻と別れるはめになったのだと。でもカルペンティエールはカラカスにやって来たときには、2番目の妻リリアを伴っていた!
ゴンサーレス=エチェバリーアがカルペンティエールの出生の問題に関して指摘している一番重要なことは、作家が創作言語としてスペイン語を選んだことを、カフカやコンラッド、ベケット、ナボコフらの世界文学Literatura universalの問題に接続していることだ。スペイン語という大きな言語で書いた者たちにも確実に存在する言語選択の問題。カルペンティエールを今、読むことの意義の最大のもののひとつは、ここに存するとぼくも思う。
カルペンティエールはもちろん、スペイン語とフランス語のバイリンガルだった。若いころには「お月様の物語」や「学生」、「エレヴェータの奇跡」といった作品をフランス語で書いている。しかし一方で、母親に書いたフランス語による手紙は、スペルミスに満ちていた。フランス語で書くためには単に「バイリンガル」と言って済ませられない努力を要したはずだ。ピカソの自伝をフランス語に訳してくれと言われて原稿を手渡された、とか、フランスでのキューバ大使館時代、公務の前に床屋に寄って髪を切ったら、オヤジから「これで立派にフランスを代表する紳士ですよ」と言ってもらった、といった自慢話をする心性は、どこかフランス語に対する負い目から出ているように思われてならない。「スペイン語の方が文学言語として豊かだから」創作言語に選んだのだと証言してはいるものの、そうとばかりは言えないような気がするのだ。でも、そして、そのわりにいつまでも "r" の発音はフランス語の発音のようであることをやめなかった。
自身の2言語状態に対する極めて両義的な思い。とりあえずカルペンティエールにはそうしたものがあるはずだ。マニアックなまでの語彙収集はそこから来ているはずだ。