2011年3月15日火曜日

反省

ああ、ぼくなどはやはり学者としては冷静を欠き、直情的でいけないな、と思うのは、こんなブログを読むときだ。

昨日ぼくが怒った石原慎太郎の「天罰」発言。これを関東大震災の時にも蔓延した天譴論(てんけんろん、と読むのかな?)なのだとして、先の大震災時にそれが蔓延した結果、どうなったかを説明している。このブログの筆者をぼくは知らないのだが(田中純のツイッターで知った)、優れた知性の持ち主と見た。学ばなければ。

ここで皮肉なのが、くだんのブログによれば(正確にいうと、それが依拠している仲田誠の論文、さらには仲田が引いた『日本震災史』の定義と見るべきだろう)、天譴とは「奈良・平安時代にすでにみられる儒教思想に基づいた「為政者に対する天の譴責」というもの」(太字は引用者)だったということ。『日本国語辞典』では「天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。」とのみ出ているが、ともかく、くだんのブログどおりだとすれば、原義どおりにとれば震災は「為政者」すなわち石原慎太郎自身に下ったものだということになってもおかしくない。そのわりに害を受けていないどころか、いけしゃあしゃあと都知事に立候補するなどと言っているし。だから、天譴として石原を落選させる、これがぼくたちにとってベストな選択。

副知事・猪瀬直樹のツイッターによれば、石原慎太郎は「天罰」発言を撤回、謝罪したとのこと。でもぼくは忘れない。ぼくたちは忘れない。忘れられるわけがないじゃないか。